「民族のため…倭敵の機関を破壊する」
ナ・ソクチュ義士が本紙に送った手紙、28日初公開
「朝鮮日報社御中。私はわが2000万民族の生存権を取り戻し、自由と幸福を千秋万代にわたって享受するため、義烈団の一員として倭敵の官設・私設機関を破壊しようと思います」
1926年、日帝の収奪機関である東洋拓殖会社(東拓)と殖産銀行に爆弾を投じ、自ら命を絶ったナ・ソクチュ
(1892-1926)義士が、義挙決行の前日に朝鮮日報に送った直筆の手紙が初めて公に展示されることになった。独立記念館は28日から忠清南道天安の
独立記念館展示室で開かれている「ナ・ソクチュ義挙80周年記念展」において、ナ・ソクチュ義士直筆の手紙が掲載された朝鮮日報の紙面を一般に公開してい
る。
この手紙は、自らの義挙の計画を朝鮮日報編集局に事前に通知するものであり、極秘裏に計画された義挙の内容を事前
に通知したという点で、当時のナ・ソクチュ義士が朝鮮日報を絶対的に信頼していたことをうかがい知ることができる貴重な資料だ。今回展示されているナ・ソ
クチュ義士に関する資料は、直筆の手紙をはじめとした90点余りで、記念展は来年2月20日まで行われる。
ナ・ソクチュ義士は1926年12月28日、東拓に爆弾を投じた後、警
察官など7人を殺害し、東拓の向かい側の黄金町2丁目(現在の乙支路2街)で日本警察と対峙(たいじ)する状況の中、自決した。当時、朝鮮日報は4回にわ
たって号外を出し、ナ・ソクチュ義士の義挙について詳細に報じたが、日帝強占期にこの手紙を掲載することはできなかった。
ナ・ソクチュ義士の手紙は、光復(日本支配からの解放)後、義挙21周年に当たる1947年12月28日に朝鮮日報の紙面に初めて掲載された。しかしその後、この手紙が展示会などで一般に公開されることはなかった。
ナ・ソクチュ義士は、手紙の中で義挙の決行に当たっての自らの決然たる意志を表明している。
「最後の力を振り絞り、携帯物品を東拓と殖産銀行に披露し、まだ余力があるならば市街火戦を繰り広げ、自決することに…(中略)…私の意志を貴紙が広く紹介して下さるよう望みます」
また、ナ・ソクチュ義士は自決する理由についても詳細に記している。
「私が自決しようとする理由は、あの倭敵の法律はわれわれに正義を与えようという意図で作られたものではなく、不
幸にも倭警に生け捕りにされた場合には、世界に例のない野蛮な悪刑が下されるのは明白であり、これに対する不服従の意志を示す目的から現場で自決すること
を決心しました」
手紙の最後には「12月28日の犠牲者、ナ・ソクチュ拝」と記され、義挙の決行日と自らの名前が明記されている。
黄海道戴寧出身のナ・ソクチュ義士は、1914年に北間島に渡り、新興武官学校で軍事訓練を受け、義烈団員として活動した。なお、ナ・ソクチュ義士には1962年に建国勲章大統領章が贈られている。