[1917.2/1917.10]ロシア革命、‘人民が暴虐な専制打倒’と解釈、革命政府は植民地解放運動支援を約束。
[1917.3平壌]秘密結社活動(朝鮮国民会、長老派系学校中心、間島など海外と連絡)
[1918.11ソウル]天道教幹部で独立運動計画:東学の後身。権東鎮、呉世昌、崔麟
[1918.12東京] 東京朝鮮留学生学友会、独立問題討議(宋継白を国内に、李光洙を上海に派遣、決起計画を伝える)
[1919.1ソウル]宋継白を通じて東京留学生の決起計画を知る。
運動原則:非暴力主義の確認。
[1919.1.18フランス] ウィルソン米大統領「14カ条」であらためて民族自決主義を提唱するがイギリス、フランスには受け入れられなかった。しかし、結果として、ロシア革命と共に植民地の民族解放運動刺激することになる。
[1919.1.21ソウル]高宗の急死-毒殺説を流布し、独立に対しての民衆の結束、勢力の拡大を図る。
[1919.1月 ソウル]キリスト教人士(李昇薫、吉善宙、李弼柱)、学生も独自の独立運動計画
[1919.2.8東京]独立宣言書発表…朝鮮青年独立団の名で。
署名:崔八鋪、尹昌錫、金度演、李琮根、李光洙、宋継白、金テツ寿、崔謹愚、白寛洙、金尚徳、徐椿
留学生集会(600名、朝鮮基督教青年会館)。示威は警察に阻止、60余名逮捕
[1919.2.27ソウル]三教連合成立。独立宣言書に33名署名(天道教15、キリスト教16、仏教2)
崔南善執筆、公約三章を韓龍雲追加→2万数千枚印刷、各地へ
[1919.2.27]3.1にパゴダ公園で独立宣言発表を計画(←3.3に高宗葬儀予定)
3.1独立宣言 要旨
[1]朝鮮は独立国、朝鮮は自主の民であることを宣言
[2]課題は新国家の建設、日本の過ちを正し、真の友好関係樹立を呼びかけ
[3]日本の強圧支配は中国その他東洋の平和を破壊すると批判
公約三章:排他的感情に走ってはならない。最後の一人・最後の一瞬まで民族独立の意志を明らかにせよ。行動は秩序を尊重し、公明正大にせよ(=平和的示威を標榜)
独立宣言後の運動の展開
非暴力示威を堅持。日本との衝突を避け、3月1日午後2時、泰和館で宣言書朗読、自首。
同時刻、パゴダ公園で集会
学生が独立宣言書朗読、独立万歳を高唱しながら示威行進→街頭に繰り出す。
何という名前の学生だったんだろう?
民衆合流、数万人のデモ
同じく3月1日に宣川、平壌、元山、鎮南浦など北部諸都市で示威、集会
学生や都市の労働者・商人によって全国の主要都市に運動が拡大
3月上旬は北部各都市で示威・ビラ配布(キリスト教・天道教の根拠地域)
3.10 大邱、光州で示威を契機に南部にも拡大
原敬首相、厳重取締を長谷川総督に指示(3.11)→6個大隊と300~400名憲兵増派決定
3月中旬から農村にも波及、間島・沿海州・アメリカにも拡大
3月下旬~4月上旬に最高潮、市日に集結。
決起人の思惑とは異なり、運動は次第に暴力化。鎌・棍棒などで武装、面事務所(役場)・憲兵駐在所など襲撃、放火を繰り返す。
4.4/10 6個大隊と300~400名憲兵増派配置完了。強圧手段で鎮圧。
暴力闘争と、それに対する武力鎮圧で、水村里事件、堤岩里事件が起きる。
→米軍基地闘争とかFTA闘争が二の舞にならなければいいね。
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総死者数について、日本の統治下での総督府の資料と、著者自身が伝聞により上海で書いたと言う資料『朝鮮独立運動の血史』の数字があまりにも違うのには困ったものだ。
非暴力での独立運動計画も虚しく、政治的信念に乏しい無知な民衆のおかげで暴力闘争になってしまった。
...早々に自首した独立運動の指導的立場の人間で死刑になったものは一人も居ない。
それどころか、独立宣言起草者の崔南善は、独立運動を諦めてしまった。結果、親日派と呼ばれることになる。
その後、韓国有識者層は、運動の展開を日本本土での人権闘争に切り替える勢力と、中国の支援を受けて上海を拠点に散発的に武力闘争を繰り返す勢力に分かれるのだけど、その話は時間が取れた時にでも。