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JAPAN 【朝鮮民族の来襲と脅威】 元寇以前の防衛戦争(新羅・高麗・南蛮・刀伊など)   |  伝統文化・伝統芸能
No.1556964    投稿者: wahaha_yamato    作成日: 2006-11-26 19:20:13 閲覧数:108    推薦ポイント:0 / 0
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朝鮮民族の来襲と脅威

1、元寇以前の防衛戦争(対新羅・高麗・南蛮・刀伊など)

我が国が異民族の侵略を受けるのは、元寇が初めてではない。平安中期から末期にかけて、新羅・高麗・南蛮等、様々な異民族が、たびたび九州に攻めてきたのである。侵略は北九州のみならず、薩摩大隅に及んだ。

自分で確かめたいなら、『太宰管内志(大宰府管内誌)』『類聚三代格』『日本三代実録』『百錬抄』『日本紀略』『扶桑略記』等を参照のこと。

刀伊の入寇を述べる際に必ず引用される『小右記』にも、寛平六年の新羅による侵略が先例として挙げられている。

「元寇(あるいは刀伊の入寇)まで、我が国が侵略を受けたことが無い」などと書いている本の筆者は、ろくに調査を行っていない。警戒すべきである(売り物なのに)。

中正を装いつつ「アジアの国々」を弁護したい方々は、以下のような反応をする傾向がある。
1.相殺論に走る。「それを言ったら日本だって……」
2.規模を比較する
1.について。暗に免罪を図ろうとしている。但し「それを言ったら韓国だって……」とは言わない傾向にある。
2.について。人命の軽重を、同時に殺害された人間の数で判断しているものと考えられる。

平安時代後期、外国から侵入相次いだことを教科書に書いても良いのではないか?
加害・被害の並列展示は、客観的な歴史観を持つ方々や平和愛好者の好むところだろう。

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弘仁四年(八一三)、新羅の賊百十人が平戸に来寇し、九人を殺して百余人を連れ去った。

大宰府言。肥前国司今月四日解称。基肆団校尉貞弓等、去二月廿九日解称。新羅一百十人駕五艘船、着小近嶋、与土民相戦、即打殺九人、捕獲一百一人者。
(『日本紀略』所収の『日本後紀』巻二十三逸文/弘仁四年三月)
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当時、新羅は憲徳王の治世で、反乱やら飢饉やらが続発して衰運に向かう。

貞観十一年(八六九)五月二十二日夜、新羅の船二隻が博多湾に侵入し、豊前国の年貢を奪って逃走した。

大宰府言。去月廿二日夜。新羅海賊。乗二艘。来博多津。掠奪豊前国年貢絹綿。即時逃竄。発兵追。遂不獲賊。
(『日本三代実録』貞観十一年六月十五日)

寛平五年五月には肥前松浦郡、閏五月には肥後飽田郡に来寇した。

五月廿二日、大宰府飛駅来、奏状称、今月十一日、新羅賊来、指肥前国松浦郡、即日賜勅符於大宰帥是忠親王、大弐安倍興行朝臣等、令追討者。
閏五月三日、大宰飛駅使来称、新羅賊於肥後国飽田郡焼亡人宅、又肥前国松浦郡逃去、即賜勅符、令追討之。
(いずれも『日本紀略』)

寛平六年(八九四)九月、新羅から賊二千五百人が四十五隻の船で対馬に来襲し、文室善友らが士卒百人を率いて防戦にあたった。のみならず、これに加えて島分寺の僧・面均など島民も戦闘に参加した。合戦には、賊三百二人を射殺して勝利した。
侵攻の発端は、捕虜が言うには「人民飢苦、倉庫悉空、王城不安、然王仰為取穀絹、飛帆参来」と、財政の窮迫によって、王が命令したことを述べている。
当時の新羅は地方勢力の割拠相次いでいたため、王といっても「新羅王」ではなく、地方勢力の自称かもしれぬ。むろん、自称であっても免罪は出来ないが。

同年には、上のほかに二月二十二日、三月十三日、四月十四日にも大宰府より賊侵入の報告がなされている。

以下、『扶桑略記』寛平六年九月五日より。あとは後日追加。
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対馬島司告新羅賊徒四十五艘到着之由太宰府。
同九日、進上飛駅使。同十七日卯時。
守文室善友召集郡司士卒等仰云。
「汝等若箭立背者。以軍法将科罪。立額者可被賞之由言上者。」
仰訖。即率列郡司。
以前守田村高良。令反間。即島分寺上座僧面均・上県郡副大領下今主等為押領使。
百人軍各結廿番。遣絶賊移要害道。豊円・春竹率弱軍四十人。度賊前。
凶賊見之。各鋭兵而来。
向守善友前。善友立楯令調弩。亦令乱声、時凶賊随亦乱声。即射戦。其箭如雨。見賊等被射并逃帰。将軍追射。賊人迷惑。或入海中。或登山上。
合計射殺三百二人。就中大将軍三人・副将軍十一人。
所取雑物。大将軍縫物甲冑・貫革袴・銀作太刀・纏弓・革胡籙・充夾保呂各一具。已上附脚力多米常継進上。又奪取船十一艘・太刀五十柄・桙千基・弓百十張・胡籙百十房・楯三百十二枚。
僅生獲賊一人。其名賢春。即申云。
「彼国年穀不登。人民飢苦。倉庫悉空。王城不安。然王仰為取穀絹。飛帆参来。」
但所在大小船百艘・乗人二千五百人。被射殺賊其数甚多。
但遺賊中有最敏将軍三人。就中有大唐一人。

長徳三年(九九七)には高麗と「南蛮」の賊が攻め寄せた。

太宰府飛駅到来。申高麗人虜掠鎮西之由。
(『百錬抄』長徳三年十月一日)
太宰府飛駅使来。申伐獲南蛮三十余人之由。
(『日本紀略』長徳三年十一月二日)

翌四年二月には高麗の、九月には南蛮の凶徒が大宰府の討伐を受けている。

太宰府追伐高麗国人。
(『百錬抄』長徳四年二月)
太宰府言上下知貴賀島。追捕南蛮由。
(『百錬抄』長徳四年九月十四日)

長保元年八月、朝廷は大宰府に南蛮の討伐を命じ、大蔵春実が戦果をあげた。

長和三年(刀伊の入寇の五年前)にも高麗が攻め寄せ、大宰府の討伐を受けている。

刀伊の入寇については、次項に詳しく記す。

その翌年には南蛮が薩摩に侵攻した。

以下、寛治元年・承徳元年の外寇については『歴代鎮西要略』に拠る。
事実か否かについては、検討を要する。

寛治元年には肥後守藤原経隆が異賊船を迎撃した。

最も規模が大きいのは承徳元年の外寇で、異賊船百隻が松浦・筑前に攻め寄せた。大宰府官兵・九州軍士大いに守り、賊船を撃破し賊徒数万を海没させたという。「官兵」と「軍士」を別記しているあたり、豪族だけでは兵力が不足し、民衆も徴発されたのであろうか。


2、刀伊の入寇

我が国に攻めてきたのは、朝鮮だけではない。国籍不明なものもある。その中で、具体的な情報を入手しうるのが刀伊の入寇である。

以下、主として、『朝野群載』所収寛仁三年四月十六日付大宰府言上解文、及び『小右記』に拠る。

寛仁三年三月二十八日、五十余隻の船団が突如として対馬に来襲し、壱岐対馬両島の住民は悉く殺戮された。

翌月七日には筑前糸島に上陸し、志摩・早良諸郡を荒らし回った。賊は人をさらい物資を奪い家屋を焼き払った。老人子供は殺し、特に丈夫な者を船に載せて連行したというから、奴隷の獲得が賊の目的であろう。

さて、日本側は寡兵であり、賊に恐れをなして士気は高くなかった。が、文室忠光らが防戦にあたり、矢を浴びせて賊数十人を死傷させた。

翌八日、賊は那珂郡能古島に移り、ここでも略奪した。九日朝、賊は島を出撃して博多 警固所に迫ったが、大蔵種材以下が防戦したため、十余人が矢にあたり、賊は退却した。その後、二日間は風強く波高かったために双方動かなかった。十一日未 明、大宰府は早良郡・志摩郡船越津に守備兵を派遣した。翌日に合戦は再開され、財部弘延らが奮戦し、矢をもって賊四十人を倒した。勝利を得た守備兵は、船 三十艘で追撃した。十三日、賊は肥前松浦郡に向かった。在地の豪族である源知が兵を集めて迎撃し、矢によって数十人を倒し、これを追い払った。

遂に賊は海の彼方に去り、十数日間に渡る戦いは終わった。

賊の正体は「刀伊」、女真人がその正体であろうと考えられている(契丹かも知れないが)。

生け捕った賊を尋問すると、全てが高麗人だと名乗った。刀伊によって捕虜となったというが、刀伊が高麗人を称していた可能性も、その逆である可能性もある。『小右記』は「刀伊国人中、有新羅人等云々」と記す。

朝廷においては、戦功者へ褒賞を与えるか否か、多少の議論があった。というのも、追討を命ずる勅符が到着する以前に戦闘が終結して いた、つまり勅符を戴いて合戦した訳では無かったからである。これについては、(当然といえば当然であるが)恩賞がもたらされた。寛平六年、新羅凶賊を撃 退した文室善友が前例として挙げられている。

大蔵種材は壱岐守に、藤原政則は対馬守に任ぜられた。これは、戦功者に防備を命じたということである。一方で、権帥藤原隆家に恩賞が有ったかは定かでない。藤原道長との権力争いに敗れ、地方官に左遷された身であれば…。

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さて、関連文書を見ると、軍事情報をあちこちに見ることが出来、当時の緊張感を感じる。船の構造、装備、戦法などの記述は、大宰府が重視して収集したであろう。高麗からは勿論のこと、南蛮(奄美島人との説あり)からも侵略を受けている。刀伊が再び来襲するかもしれない。

刀伊の用いた戦法は、集団戦法である。大宰府言上解文に「耀刃奔騰、次帯弓矢、負楯者七八十人許、相従如此、一二十隊、登山絶 野」、『小右記』四月二十五日条に「合戦場毎人持盾、前陣者持鉾、次陣持大刀、次陣弓箭者、箭長一尺余許、射力大猛」という。各人が手盾を持ち、最前列か ら鉾隊、大刀隊、最後列に弓矢隊という布陣で、二十隊程度が構成されていた。

対する日本軍も、戦死者の表現に「矢に中る者」という表記を用いており、弓箭を主武器としていることは明らかである。

表向き大宰府の官兵が防戦したように見える。しかし、以下に述べるように大宰府自体が持つ軍事力は微弱なものであり、これだけではとても防ぎきれるものではない。実体としては、大宰府に出仕していた官僚が、自らの武力で戦ったのである。

これら大宰府の官僚には、大きく分けて二種類ある。まず、在地の豪族である。次に、京都から下向してきた貴族が、(権力を利用して 一財産築き)土着したものである。前者の代表は宗像氏・菊池氏であり、後者のそれは藤原純友の乱を機に土着した大蔵氏(のち原田氏・秋月氏)である。

一騎打ちの描写はない。それはそうだろう、律令制では軍団制(のち縮小されて健児制・選士制)が採られていた。各隊は統領の指揮下に行動したのだ。


削除申告  
  pakurijyanai 11-26 19:43  
  出処を明らかにしてください本人が作成したことですか?
   → ysfm0504 11-26 19:43
      よく本文を読みなさい。出処が書かれているではないですか。日本人はいつも、根拠のある資料を出しています。
  omorosoushi 11-26 20:45  
  「刀伊」は「Toi」と読むのだが「東夷」とは関係あるnika?
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