元 慰安婦 文玉珠(ムン・オクジュ)さんの人生PART3
文玉珠さんは、慰安婦(従軍売春婦)として、ビルマに行きました。
彼女は、その後、苦難の人生を歩み 日本政府を相手取り、郵便貯金の返還訴訟を起こすなど
精力的に活動しました。
聞き取り調査と当時の日本人、連合軍の記録から、彼女の歩んだ人生を振り返ります。
今回は、ミャンマーでの生活後編(帰国まで)を紹介します。
彼女のビルマでの足跡は、上の図の通りです。
後半は、後方勤務となっています。
帰国時の文玉珠さんの手記
さて、帰国間際の彼女のコメントを見てみましょう。(青色部要約)
タイのアユタヤの病院で、日本人の看護婦14・5人と一緒に臨時看護婦として働く
この病院で3から4ヶ月程度働く
ここで、日本の降伏を知った。
それから3ヶ月位して帰国した。
ラングーンなど都会にいた慰安婦は、顔色が良かったが、私たちは乞食のようだった。
慰安婦の栄養状態
連合軍の撮影した捕虜の写真
さて、彼女たちの栄養状態は、どの様な状態だったのでしょうか?
ここに一枚の写真があります。
(インペリアル・ウォー・ミュージアム所蔵、出典:秦郁彦著「慰安婦と戦場の性」 私の検証が十分ではないので参考程度に考えてください)
この写真は、シッタン河脱出の時に捕虜となった 中国及び朝鮮_人慰安婦の写真といわれている。
この慰安婦たちが、栄養状態の悪い 乞食のような姿であるか の判断は、皆さんにお任せします。
アメリカ軍の調書に見る慰安婦の状態
さて、アメリカ軍の記録では、どうなっているのであろうか?
前スレッドで紹介した捕虜尋問調書を参照してみよう。彼女の住んでいた場所よりかなり奥地で、捕虜になるほどの最前線、ミッチナの捕虜の尋問書である。http://www.exordio.com/1939-1945/codex/Documentos/report-49-USA-orig.html(青字部抜き出し)
食料・物資の配給量は多くなかったが、欲しい物品を購入するお金はたっぷりもらっていたので、彼女たちの暮らし向きはよかった。
彼女たちは、故郷から慰問袋をもらった兵士がくれるいろいろな贈り物に加えて、それを補う衣類、靴、紙巻きタバコ、化粧品を買うことができた。
長い年月で、文玉珠さんの記憶は、多少混乱しているのかもしれない。
慰安婦の帰国時のエピソード
さて、帰国時のエピソードとして、一つの話を紹介しよう。
ただし、この話は、彼女のことを書いた話ではないので注意願いたい。
当時のビルマから 脱出前の 捕虜収容所での 慰安婦達の 雰囲気を 知って頂く為の話である。(出典:田村正太郎「ビルマ脱出記」228P青字部要約)
英軍将校から「兵士たちの相手役をつとめる社交的
な婦人を10名ばかり」差し出してくれと要請された自治会幹部は、クジで選ぶしかないと覚悟を決め、女子宿舎の100人ばかりを集め打診すると、「一人も
いないはずの希望者が全員の半数を越える50人以上」という予想外の結果となり、10人をえらぶクジ引きをやったという。
しかも、選ばれた女性に英軍兵士からのプレゼントが多いのを知って、女子宿舎連中の羨望の的となったのを聞き、「幻滅感もまた大きかった」
日本兵殺害事件
さて、彼女の話のハイライトで必ず登場するのが、日本人兵殺害事件である。
ラングーンでの事件である。
その様子を彼女の手記から引用する。
(酔っ払いの兵長は)「朝群ピーのくせに生意気だ」と罵ってきた。そのうえ 刀を抜いて、私を脅した。
「その刀は、天皇陛下様から貰った物じゃないか……朝鮮ピーと言って馬鹿にして。私たち朝鮮_人は、日本人じゃないか」
「何を、この野郎、お前は ただの女じゃないな」
その兵長はヤアーッ、と凄い血相をして切りつけてきた。私は 夢中で 体当たりした。男は刀を床に落とした。
私は、それを 拾い、男に 向かって 真っ直ぐ突き出した。刀は男の胸を刺した。
すぐに私は営倉に入れられた。兵長は何日目かに病院で死んだ。
ところが彼女を救えとデモまであって、軍法会議の判決は正当防衛で無罪釈放になった。
殺害事件の記録
この事件について、日本側の記録は全く残っていない。軍法会議の記録も無い。
この件で、秦郁彦教授が、ラングーン憲兵隊本部に勤務していた横田正夫少尉、藤
井定雄曹長に聞き取り調査を行っている。(秦郁彦著「慰安婦と戦場の性」)
その証言である。
二人がこもごも語ったところを総合すると、「兵隊が慰安婦に殺されたとしたら大事件で、それに軍法会議へ
送
致するのは憲兵隊だが、聞いたことないなあ。作り話じゃないか」とのこと。そこて一仮にあったたとすれは、どんな処理になりましょうかと聞いてみると、
「44年から45年にかけてはインパール戦敗北のあとでビルマは全軍総崩れに近く、こんなことで軍法会議を開く余裕はない。殺された兵士は名誉の戦死にし
ておき、犯人はこっそり処分となりますかねえ」との返事であった。
憲兵隊に所属していた2人とも この事件について 記憶は無く、仮に 事件があったとしても、軍事裁判は あり得ない との回答であった。
長い年月で、文玉珠さんの記憶は、多少混乱してい様です。
何れにしろ、このような悲劇は繰り返したくないものです。
さて、次回は、帰国以後の話です