元 慰安婦 文玉珠(ムン・オクジュ)さんの人生
文玉珠さんは、慰安婦(従軍売春婦)として、ビルマに行きました。
彼女は、その後、苦難の人生を歩み 日本政府を相手取り、郵便貯金の返還訴訟を起こすなど
精力的に活動しました。
聞き取り調査と当時の日本人、連合軍の記録から、彼女の歩んだ人生を振り返ります。
今回は、ミャンマーでの生活を紹介します。
1.ラングーン 2.マンダレー 3.ブロン 4.アキャブ 5.ラングーン 6.アユタヤ A.ミッチナ
文玉珠さんの足跡
ハルモニたちの面影よりhttp://homepage3.nifty.com/tajimabc/new_page_22.htm青字部分要約
多分七~八か月くらいマンダレーにいて、その後部隊とともにプロン・アキャブ・ラ
ングーンと移動し、その後タイのアユタヤに行きました。その頃には軍隊の中ではもう日本の敗色は濃いということが、たぶん薄々は分かっていたように思いま
す。そのアユタヤで私は野戦陸軍病院で働かされた。
そこで終戦を迎える。
各証言により多少の違いはありますが、ここに大きな違いはありません。長い年月のうちに記憶が曖昧になっているのでしょう。
文玉珠さんの生活
さて、文玉珠さんの生活はどのような状況だったのでしょうか?
証言を一言で説明すると「人間の尊厳を無視した 性奴隷の生活」です。
確かに、慰安婦生活は辛い事も多かったでしょう。
また、証言では、「私の様に 前線に近く、奥地に派遣されるほど辛い生活だった」との話もあります。
さて、ここに アメリカ軍の捕虜に対する尋問調書があります。
彼女より更に奥地ミッチナで捕虜になった朝鮮_人慰安婦の調査報告です。
http://www.exordio.com/1939-1945/codex/Documentos/report-49-USA-orig.html
アメリカ陸軍インド・ビルマ戦域軍所属 |
アメリカ戦時情報局心理作戦班 |
APO689 |
秘
日本人捕虜尋問報告 第49号
尋問場所 |
レド捕虜収容所 |
尋問期間 |
1944年8月20日~9月10日 |
報告年月日 |
1944年10月1日 |
報告者 |
T/3 アレックス・ヨリチ |
捕虜 |
朝鮮_人慰安婦20名 |
捕獲年月日 |
1944年8月10日 |
収容所到着年月日 |
1944年8月15日 |
性向
尋問により判明したところでは、平均的な朝鮮_人慰安婦は二五歳ぐらいで、無教育、幼稚、気まぐれ、そして、わがまま
である。慰安婦は、日本的基準からいっても白人的基準からいっても、美人ではない。とかく自己中心的で、自分のことばかり話したがる。見知らぬ人の前で
は、もの静かでとりすました態度を見せるが、「女の手練手管を心得ている」。自分の「職業」が嫌いだといっており、仕事のことについても家族のことについ
ても話したがらない。捕虜としてミッチナやレドのアメリカ兵から親切な扱いを受けたために、アメリカ兵のほうが日本兵よりも人情深いと感じている。慰安婦
は中国兵とインド兵を怖がっている。
生活および労働の状況
ミッチナでは慰安婦たちは、通常、個室のある二階建ての大規模家屋(普通は学校の校舎)に宿泊していた。それぞれの慰安婦は、そ
こで寝起きし、業を営んだ。彼女たちは、日本軍から一定の食料を買っていた。ビルマでの彼女たちの暮らしぶりは、ほかの場所と比べれば贅沢ともいえるほど
であった。この点はビルマ生活2年目についてとくにいえることであった。食料・物資の配給量は多くなかったが、欲しい物品を購入するお金はたっぷりもらっていたので、彼女たちの暮らし向きはよかった。彼女たちは、故郷から慰問袋をもらった兵士がくれるいろいろな贈り物に加えて、それを補う衣類、靴、紙巻きタバコ、化粧品を買うことができた。
彼女たちは、ビルマ滞在中、将兵と一緒にスポーツ行事に参加して楽しく過ごし、また、ピクニック、演奏会、夕食会に出席した。彼女たちは蓄音機をもっていたし、都会では買い物に出かけることが許された。
報酬および生活状態
「慰安所の楼主」は、それぞれの慰安婦が、契約を結んだ時点でどの程度の債務額を負っていたかに
よって差はあるものの、慰安婦の稼ぎの総額の50ないし60パーセントを受け取っていた。これは、慰安婦が普通の月で総額1500円程度の稼ぎを得ていた
ことを意味する。慰安婦は、「楼主」に750円を渡していたのである。多くの「楼主」は、食料、その他の物品の代金として慰安婦たちに多額の請求をしていたため、彼女たちは生活困難に陥った。
1943年の後期に、軍は、借金を返済し終わった特定の慰安婦には帰国を認める胸の指示を出した。その結果、一部の慰安婦は朝鮮に帰ることを許された。
さ
らにまた、尋問が明らかにしているところによれば、これらの慰安婦の健康状態は良好であった。彼女たちは、あらゆるタイプの避妊具を十分に支給されてお
り、また、兵士たちも、軍から支給された避妊具を自分のほうからもって来る場合が多かった。慰安婦は衛生に関して、彼女たち自身についても客についても気
配りすように十分な訓練を受けていた。日本軍の正規の軍医が慰安所を週に一度訪れたが、罹患していると認められた慰安婦はすべて処置を施され、隔離された
のち、最終的には病院に送られた。軍そのものの中でも、まったく同じ処置が施されたが、興味深いこととしては、兵士は入院してもその期間の給与をもらえな
くなることはなかったという点が注目される。
ここで注目したいのは
1. 「欲しい物品を購入するお金はたっぷりもらっていたので、彼女たちの暮らし向きはよかった。」「多くの「楼主」は、食料、その他の物品の代金として慰安婦たちに多額の請求をしていたため、彼女たちは生活困難に陥った。」の記述に矛盾がある。
2. 借金を返済し終わった特定の慰安婦には帰国を認める胸の指示を出した。その結果、一部の慰安婦は朝鮮に帰ることを許された。
の2つである。
文玉珠さんは、多額の貯金をしているのである。
上の写真は、文玉珠さんの貯金原簿のコピーである。
26145円の貯金をし、この外、5000円を実家に送金したと証言している。
当時1000円で家が買えた時代である。相当の大金だとわかる。
どうやら、「欲しい物品を購入するお金はたっぷりもらっていたので、彼女たちの暮らし向きはよかった。」のほうが正しそうである。
さて、残る疑問点は、
何故、借金を返済し帰国しなかったのか?
である。この点については、証言を見つけることが出来なかった。
借金の返済が出来なかったのであろうか?
当時、慰安婦は、前受け金を いくら 受けることが 出来たのであろうか?
enjoy userには おなじみの 上の写真では、3000円まで借金可能と書かれている。
多くても、1万円くらいまでしか借金できなかったと予測できる。
十分借金返済は 可能だったのではないだろうか。
帰国途中での アメリカ軍の攻撃が 怖かったのであろうか?
何れにしろ、悲劇である。
さて、次回は帰国時の状況についてレポートします。