1761年、江戸幕府の9代将軍徳川家重が没し、将軍の襲職を祝うために恒例の朝鮮通信使が招聘された。 この第11次
の朝鮮通信使に、書記官として随行した金仁謙(Kim In
Gyeom)は、その時の日本への長旅の記録を「日東壮遊歌」と題して書き残した。 そこに描かれた率直な(時に感情的な)彼の日本への印象は、蔑視と羨
望とが入り混じった興味深い物である。 その一部を抜粋してみよう。
(参考のため添えた写真は日本の1860-80年代)
●神戸(1764年1月19日) 瀬戸内海の眺望に感動の巻
「この地で登る月が見事だと言うので、船を一列にして進ませ、使臣の
お供をしてマストへ登り、四方を眺める。 風は澄み渡り、波は静か、まさに水天一色の景だ。 やがて月が昇るが、その壮観は筆舌に尽くしがたい。 紅雲に
手が届きそうであり、海がひっくり返ったかのようだ。 大きな丸い白玉の輝きが、その間から顔を出すと、眩しい黄金の柱が万里の彼方に伸びる。 我が国の
眺めに比べても、倍以上は優れていると言えるだろう。 兵庫(神戸)の方を眺めると、無数の灯火が1里に渡って続いている。 夜空には幾千万の星が冴えて
瞬き、地には百万もの灯篭が海辺に揺らめき輝く。 今夜のこの眺め、天地間の奇観と言えるだろう。」
●大阪(1764年1月21日) 刺身なんて食べられるか!!の巻
「宴席に運び込まれた食べ物を見ると、これがあまりに奇怪な代物。
鮑や蛸等全てを刻み、混ぜ合わせてくっつけたものを丸く積み上げ、1尺程の高さに盛り上げている。色とりどりで、形は皆四角い。 伊勢海老というものが生
のまま置いてある。 海老の一種だが、まことに大きな物だ。 その他名前も分からないものが窮屈に並んでおり、その数は数十にも登るが、食べられる物は全
くない。」
●大阪(1764年1月22日) 秀吉を思い出して腹が立ってきた!!の巻
「高殿に登って四方を眺める。地形は変化に富み、百万戸ほどもありそ
うだ。我が国の都市の多くは東西1里と言われているが、実際は1里に満たないし、富裕な宰相でも、100間の邸宅を建てることは禁じられている。 倭人た
ちは屋根を全て瓦葺きにしていることにも感心するが、大したものだ、1000間もある家を建てて、中でも富豪たちは銅で屋根を葺き、黄金で家を飾ってい
る。その贅沢さは異常なほどだ。南端から北端までほぼ10里もある土地は全て利用され、住居や商店が軒を連ねて並び、中央には川が南北を貫いて流れてい
る。世界は広いとは言え、このような眺めが他のどの土地で見られるだろうか。北京を見たという通訳者が私たちの一行に加わっているが、中国の壮麗さもこの
土地には及ばないという。」
「大阪は秀吉の都である。 過ぎ去った昔のことを考えると、激しい怒りが込み上げてくる。」
「穢れた愚かな血を持つ獣のような人間が、今まで2000年もの間、世界の興亡と関わりなく一つの姓を伝えてきて、人口は次第に増え、このように富み栄えていることを知らないのは天だけである。嘆かわしく、恨めしいことだ。」
●大阪(1764年1月23日) 詩文で朝鮮の威光を知らせるのも楽じゃないの巻。
「食事の前から大勢の倭人がつめかける。詩を答えて送るのもうんざり
である。病気で体もだるいが、国王より派遣されてきた意義は、倭人たちを感服させ、朝鮮の栄光を教えることにある。 例え病が重くても、書かないわけには
いかない。 死力を尽くして、疾風のように筆を揮う。 ようやく一つを終えれば、また別の詩文を懐から取り出す。 さらに応じてやれば、次々と限りなく差
し出してくる。 老いさらばえた筋力は、もはや尽き果てるかと思うほどである。」
●京都(1764年1月28日) こんなに素晴らしい土地は倭人にはもったいないの巻
「籠から降りないまま、倭城(京都)へ入る。 人々の豊かな様は、大阪には及ばないが、都の西から東までの距離は3里に及ぶという。 倭王の居所と
いうから、その贅沢は計り知れない。 山の姿は勇壮、河は平野を巡って流れ、肥沃な土地が千里にも広がっている。 あまりにも惜しいことは、この豊穣な土
地は倭人の所有するところであり、帝や皇と自称して子々孫々まで伝えられていることである。この犬にも等しい奴らを、皆ことごとく掃討し、日本全土を朝鮮
の国土にし、朝鮮王の徳をもって礼節の国にしたいものだ。」
●大垣(1764年2月1日) 文人のプライドを学びなさい日本人よ!の巻
「宿について一息入れる暇もなく、倭の儒者が5,6人、順番に詩を差し出して次韻を懇願する。 紙を広げ墨をすり、煙草一服の間に8編ほど書き上げ
る。 その中の一人は、'小国の卑しい儒者として生まれ、このように立派な物を拝見できた上は、今夜死んでも悔いはありません'と言って退席したが、再び
姿を現した時、箱に何やら入れて差し出すので、一応受け取って表を見ると、封の上には'緞子3反と銀43両'と書いてある。 驚き呆れて、紙に書いて見せ
る。 '貴公は外国の人とは言え、儒者でありながら、銀貨で詩文の礼をするなど、その志には感激するが、義の道には大いに反することだ。 受け取れない
が、咎めないでください'」
●名古屋(1764年2月3日) 名古屋女は美人だ!!の巻
「午後九時頃、名古屋に到着した。 その豪華さ、壮麗さは大阪と変わらない。 人口の多さ、田地の肥沃さ、家々の贅沢なつくりは、この旅で目にした中でも一番と言える。 中国にも見当たらないだろう。 朝鮮の三京も非常に立派だが、この都市に比べれば寂しい限りである。」
「人々の容姿の美しさも、沿路で一番である。 特に女性が皆とびぬけて美しい。 人間の血や肉であのように美しくなれるものだろうか。趙飛燕(前漢成帝の皇后)や楊貴妃が古来から美しいと言われてきたが、この土地で見れば色を失うのは必至である。」
「女性の容姿の美しさは倭国で一番と言える。 若い軍官たちは、道の左右で見物している美人を一人も見逃さないように、終始頭を左右に振るのに忙しい。」(帰路、1764年3月26日に)
●箱根(1764年2月13日) 富士山の景観にご満悦の巻
(葛飾北斎画)
「昨日見た富士山はさほど高いと思わなかったが、この峠で見る富士山は倍以上も高く見える。 ほとんどの山々は、朝鮮で言うならば鳥嶺の程度の高さ
だが、ここより見た富士はその3,4倍もありそうだ。 日本の名山中第一であると納得する。 峠の北側を見ると、芦ノ湖が滔々と水を湛え、壮観は7里にも
及ぶという。 何という見事な眺め、まさに天下の奇観である。 我が国の恭倹池を壮観と言うが、ここに比べてみれば恰も窪みの水溜り。白頭山の頂上の天
池、漢ヌ山の白鹿潭に比すべきか。」
●江戸(1764年2月16日) 江戸は大きすぎるの巻
「16日、雨への備えをして江戸に入る。 左側には家が連なり、右側には海が広がっている。 見渡す限り山は無く、肥沃な土地が千里も広がってい
る。 楼閣や屋敷の贅沢な造り、人々の賑わい、男女の華やかさ、城壁の整然とした様、橋や船に至るまで、大阪や京都より三倍は勝って見える。 左右にひし
めく見物人の数の多さにも目を見張る。 拙い私の筆では、とても書き表せない。 女性の艶やかなことは、名古屋に匹敵する。」
●江戸(1764年2月27日) ついに江戸城へ。でも…の巻
「国書伝達の時を迎える。 使臣方は朝服を召し、笛や太鼓の音とともに六行の礼をもって進むが、私は一人で少し考えた末、儒者の身として徒に城内に
入り、将軍に拝礼するなど、この上ない恥辱と思い、参列は取りやめて休むことにする。 使臣方は、ここまで来たのだから、一緒に赴いて見物してきても悪い
ことではないだろう、と仰るが、私は笑って申し上げる。 '国書を奉じて行かれるあなた方は恥辱を甘受しても王命だから仕方ありませんが、一介の文士に過
ぎない私としては、見物の為に、犬の陰茎のような倭人たちに拝礼するのは苦痛です。絶対に行けません。' 使臣方は仕方なく、笑って仰った。'そうして帰
国した後、一人で良い格好をしないでくれよ。''良い格好などとんでもない。物事の道理を申し上げたまでです'」
●ソウル(1764年7月8日) そんなわけで使命を果たして帰還。
「皆官服に身を整え、王の御前に参上する。(中略)宿所へと戻る。妹が喜んで迎えてくれ、その娘は嬉しさに泣き出した。一族親戚も慰労にやってくる。」
「さまざまな体験を経て、一年ぶりに我が家へ帰る。この体験をわが子孫に伝えようと、歌辞の文句に書き綴り、ほんの一部を記してみたが、冗長で粗雑の極みだ。ご覧の方々はお笑いにならず、暇つぶしにでもしていただきたい」
なかなか、魅力的な作者でしょう?
250年前の日本を体験した朝鮮の儒者の言葉、リアリティがありますよね。