3.1独立運動の実態です もう笑っちゃいます^^;
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家畜同然の生活をしていた半島庶民の生活を向上させ、文字も読めず放置されていた人々にハングルを普及させ、身分制を廃止し誰でも平等な機会があたえられる様にした大日本帝国。
※この平等な扱いの中には現在問題になっている通称「強制連行」が含まれます。同じ日本人として扱ったため、各種権利を得ると同時に労働(強制労働w)や税金(搾取w)そして戦時中は徴兵が義務が課せられました。
平等であるとはこういうことです。
さて、そうなれば面白くないのはそれまで利権を貪っていた支配者層の両班(リャンバン)階級です。
なにしろ統治前までは何もしなくても(着替えすら自分でしなかった)裕福に暮らせたのですから。
不満を持った彼らは朝鮮半島の中心で独立を叫んでみます。
これが実は
3.1独立運動w
独立運動の象徴である上海臨時政府は、この小さなアパートの一室にありました。
http://www.dce.osaka-sandai.ac.jp/~funtak/photo/imjung_temp/FrameSet.htm独立運動の中心となった人物が金佐鎭(キム・ジャジン)
ぐぐってみると物凄く勇ましい運動だったように書かれていることが多いですが、実態は大笑い。
日本でも明治維新後は武士が落ちぶれて行きましたが、それでも彼らはその矜持を失いませんでした。
しかしそこは朝鮮、日本とは民度が違います。両班にはそんなプライドなんてありません。
独立運動と称しているものの、その実態はただの
暴動。
当時の報道
「運動の指導者は、非暴力を宣言しながら、それは口実であって、至る所で暴力沙汰が広がったで
はないか。それは公務執行妨害罪であり、騒擾罪に該当する。いわゆる独立運動なるものは、同胞に累を及ぼすような不法の中から生まれるものではない。朝鮮
民族にとってそもそも独立とは何であろうか。三韓時代の昔から李朝末までに至るまで、常に支那の直接または間接の支配に甘んじ、朝貢を続けてきたのではな
かったか。わずかに日清戦争後、(日本によって)「大韓帝国」の国号を建てたが、ロシアの勢力が強大になると、たちまちその方向になびいていった。もし日
本がロシアを抑えなかったら、朝鮮はロシアに支配されていたことは間違いない。現在は国際連盟に期待しているようだが、提唱者のアメリカでさえ、国連は頼
むに足らずとして加盟しないではないか。ウィルソンの大手品に踊らされるのはやめて、足元を見よ。」
「京城日報」(1919年3月7日)
要するに外国でフーリガンなんかが意味も無く鬱憤晴らしに暴動やっていたりする、あんな感じです。
これが各地で起きたとされる
独立運動の実態。
実際金佐鎭は強盗罪で2年6か月の実刑を受けたこともあります。
弾圧していたと言われている割には穏当な判決ですね。
これは日本が公平に裁判を行っていた証拠でもあるでしょう。
また、この独立運動が非常に激しい物であり、また一時は成果を上げたこともあるのだということにするために引き合いに出されるのが
青山里戦闘です。
日本人にはまーったく馴染みの無い、恐らく殆どの人が初耳と思われるこの戦闘。
独立運動の象徴として韓国人なら皆知っています。
ゲリラ側の報告:日本軍の死者1600余名
日本領事の秘密報告書:「二道溝の戦闘で加納連隊長以下大隊長2名、小隊長9名、下士以下兵卒の戦死900余名」 (※この領事館報告は見つかっていませんw)
の大勝利とされる青山里戦闘。
実際に史料をみてみると…
19師団軍司令部文書10月21日、三道溝青山里付近で交戦、屍体16を遺棄壊走。日本軍死者3名、負傷4名、10月22日、二道溝漁郎村で交戦、逃走、日本軍死者1名、馬三匹以外戦闘は無し。
「間島出兵史」 東支隊の行動記録アジア歴史資料センター
http://www.jacar.go.jp/search/gazou_frame.html:リファレンスコードC20030227702
10月15日歩兵第37旅団長 東少尉が龍井村で、東支隊を編成
10月17日500~600人の賊が青山里付近にいるとの情報入手。配置は下記のとおり。
山田討伐隊(歩兵五中隊が中心)は主力を討伐
騎兵連隊(連隊長は加納大佐)は本体を迂回し、退路遮断
歩兵第74連隊の二中隊、機関銃一小隊、野砲兵一小隊は、頭道溝で待機
その他の部隊は現在地に待機。
支隊長は、頭道溝に移動。
山田討伐隊>
10月18日 青山里に向かって前進
10月19日 中村大隊が、蜂蜜溝西南3千mで40人の馬賊と遭遇。(日本損害:0、賊損害:2名負傷)
10月20日 青山里に到達。賊が奥地に逃げたとの情報を得る。同地に宿営
10月21日 安川少佐の選抜歩兵一中隊が、賊の昨晩の宿営地を発見。更に進み射撃を受ける。30分程度交戦。賊は老嶺の奧に逃げる。(日本損害:死者 兵卒4名、負傷 下士官1名、兵卒2名 賊損害:死体16を遺棄) 支隊長、支隊予備隊>
10月18日 洪範図の部隊が、頭道溝西方六里にいるとの情報を得る。天賓山の飯野大隊に、一中隊を現地に残し、他を頭道溝に進める。
10月19日 頭道溝付近を捜査したが発見できず。
10月20日 飯野大隊が支隊予備隊に合う。
10月21日 魚朗村で道に迷い、南陽村に至って宿営
騎兵連隊>
10月18日~21日 昇平嶺方面を目指すが道が悪く、支隊予備隊と連携するため、索敵しつつ魚朗村に達して宿営。
10
月22日5時50分 金佐鎭の兵300人と交戦。支隊予備隊も急行。賊は874高地南面を占領。5時間の交戦を行い、0時30分に飯野大隊も合流し撃退。
(日本損害:死者 下士官1名 兵卒2名、負傷 兵卒12名 賊損害:死傷約60名、捕虜5名、小銃22丁、軽機関銃1丁を押収)賊は山地に四散し、退却
方面が判明せず。
10月25日 歩兵150名、機関銃一丁を率いて、蜂密溝2千mの小川を西進。午後10時に露営地を確認。0時に夜襲。敵は逃亡。(日本損害:なし 賊損害:死傷約30名、小銃10丁、軽機関銃1丁を押収)
10月26日 蜂密溝に退却。
翌年1月には部隊は作戦行動を終了。
最終的な日本政府側の戦死者11名。
というわけで、実際は大した戦闘でもなかったと。
大したことではなかったので、日本では全く知られていないんですね。
まあ結局独立運動などと称しても、元々動機が不純ですからやっている事は略奪暴動にすぎず日本に次々と鎮圧されて行きます。
どんどん追い詰められた結果、最終的には金佐鎭は食いつぶれて
な、なんと
独立の英雄が!!!
敵のはずの日本政府に
生活援助を頼みます!!!信じられない!話だけれど証拠の史料あり。
○独立団首領金佐鎮等救済方ノ件 自大正十二年三月(朝鮮_人ニ対スル施政関係雑件/難民救済ノ部 第一巻) アジア歴史資料センター レファレンスコード:B03041641200
要
約「金佐鎮以下600名の「独立運動家」は資金と武器が欠乏し、海林鮮_人会長である「キンエイセン」なる人物の説得によって寧安・密山県地方で農業を行
う以外にないと認識するに至った。しかし資金がないので救済を日本側に申し入れた。これは彼らを正業に就かせる絶好の機会である」
結局、独立軍は朝鮮_人農家に対するやくざのような脅しで得た金と、ソ連からの支援で食いつないでいたものの、日本のシベリア撤兵で厄介者になりソ連から武装解除させられ、放逐。その結果、金策に困って日本政府に
「物乞い」韓国の英雄ってこんなのばっかり。wwwwwww