人種差別撤廃法案
「全米黒人新聞協会」は、「我々黒人は、講和会議の席上で、人種問題について激しい議論を戦わせている日本に、最大の敬意を払うものである」、「全米1200万の黒人が息をのんで、会議の成り行きを見守っている」とコメントしている。
アメリカのウイルソン大統領は、理想的人道主義者のように
言われているが、自分の国内の事情もあり(注)、この法案の投票結果が17対11で賛成多数となると、突如、このような重要法案は、「全会一致でなければ
ならない」として、「不採決」を宣言し、日本の提出した「人種差別撤廃法案」を葬り去ってしまった。
日本のユダヤ人の保護政策
当時リトアニア領事代理、杉原千畝が本来出してはいけないビザを発行し、1万人前後のユダヤ人が助かった。
シベリア鉄道で逃げたユダヤ人の一部は、ロシア軍が政治犯だと称して、ユダヤの智識人たちを連行していった。
日本が、領事とか公使館レベルではなく、陸軍省とか外務省のレベルでユダヤ人の救出作業を始めた事が、レビン教授の綿密な調査によりわかってきた。
日本の外務省外交資料館で発見された資料の中には、杉原氏のほかにも、ウイーン、ハンブルグ、ストックホルムなど欧州12箇所の日本領事館で、ユダヤ避難民へ、数百件のビザが発行された記録が見つかっている。
ユダヤ人難民達が日本にたどり着いたとき、日本政府はすんなりと彼らを受け入れた。「日本の入国官吏官は、通過ビザのチェックに意外なほど寛大だった」(生存者の一人、杉原ビザのリスト17番、イサック・レビン)と複数のユダヤ人が証言している。
最終目的地のビザも旅費もなく、途方にくれていたユダヤ人難民が、ごく普通の日本人によって手厚く遇された記録も次第に明らかになってきつつある。
日本には、国家なきユダヤ人に国家を与える為、5万人のユダヤ人を満州へ受け入れる移住計画があった。
東条英機とユダヤ人
1938年3月、ドイツからシベリア鉄道経由で約2万人のユダヤ人難民が、ソ連と満州の国境の駅、オトポールに集まった。
ユダヤ人たちは、満州経由で上海へ向かいたかったのであるが、満州国外交部は、友好国ドイツへの配慮から、ユダヤ人の入国を拒否した。
ハルビン在住の極東ユダヤ人協会会長、アブラハム・カウフマン氏の要請により、樋口少将が満州国外交部の責任者と会って説得した。一方で、樋口少将は、南満州鉄道の松岡洋右総裁に救援列車を要請し、12両編成の列車13本が、行き場を失ったユダヤ人救出のため出動した
ドイツ外務省より厳重な抗議を受けた。
東条英機はその抗議を 「当然なる人道上の配慮によって行ったものだ」と一蹴した
1937年に ハルピンで開催されたナチスの暴挙を世界に訴えるための極東ユダヤ人 大会にハルビン特務機関長だった樋口季一郎らが出席したことに対し、 当時、同盟国であったドイツが抗議。その抗議を東條が握りつぶした。
ラビ・マーヴィン・トケイヤー著「ユダヤ製国家日本」という本の中に東條について以下のような記述があり樋口季一郎と同様にユダヤ人から「英雄」と称えられているようだ。
http://wwwi.netwave.or.jp/~mot-take/jhistd/jhist4_6.htm
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%B1%E6%A2%9D%E8%8B%B1%E6%A9%9F