従軍慰安婦 黄錦周さんの告白です。
1:14歳のとき、いわゆる「少女供出」で満州に連行され、皇軍兵士のセックスのはけ口にされたつらい体験を語りました。
2001.07.17 東京大学にて
2:「威興の女学校在学中の17歳の時1939年に国民徴用令で動員され軍需工場に行くと思っていたが着いた所は吉林の慰安所 でした。 1995年 朝日新聞インタビュー
3:
17歳のとき、日本人の村の指導者の妻が、未婚の造船人少女全員に日本軍の工場に働きに行くように命じました。そのとき私 は労働者として徴用されたの
だと思いました。3年も働いたころ、ある日一人の日本兵が自分のテントについてこいと要求しました。かれは着物を脱げと私にいいました。たいへん怖かった
ので抵抗しました。私はまだ処女でした。しかし彼は銃剣の付いて いる銃で私のスカートを引き裂き、下着を体から切り離しました。そのときに私は気を失
いました。そしてふたたび気が付いたと きには毛布を掛けられていましたが、あたり一面に血が付いていました。
国連・経済社会理事会 クマラスワミ報告 1996年1月4日
4:「満18歳になった時のある日、男がやって来て村から娘を出すように伝達をしました。何をするのかよく分からなかったのですが、ソウルの工場か何かで働くのだろうと思っていました。姉は家から離れて生活していていなかったので、私が代わって出ることになりました。」
[日韓社会科教育交流団韓国を訪問]1997.夏期
5:「私は19歳で学校を卒業する25日前に日本軍に引っ張りだされ仕方なく慰安所に行ったんだ!日本人に便所と言われもうこれ以上我慢できない!やっぱりあの時死んどきゃよかったんだ!これ以上生きててもしょうがない!もう死んでやる殺してくれ!」
TBS「ここが変だよ日本人」より
6:父の発病後家運が傾き、13歳のとき家をでて、奉公に出ました。村の班長(日本人)に「日本の軍需工場に行けば、お金がもうかる。一家に一人は行かなくては」と脅かされ、奉公先の娘たちにかわって1941年、二十歳で国を離れましたが、ついた所は慰安所でした。
元日本軍「慰安婦」の証言を聞く集会 1997年12月5日(金)福岡市都久志会館ホ-ルにて
7:「生活は貧しく12歳の時100円で売られてソウルの金持ちの家で小間使い。1938年に威鏡南道ハムン郡で女中をしていた時にその家の娘の身代わりとなって満州に連行され慰安婦となる」
高木健一著『従軍慰安婦と戦後補償』
頭の悪い、韓国人の為に、解りやすく説明すると、
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14歳のとき、「少女供出」で満州に連行され、皇軍兵士のセックスのはけ口にされた。
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いつのまにか、村に戻り、女学生になり、
17歳の時、国民徴用令で動員され軍需工場に行くと思っていたが着いた所は吉林の慰安所だった。
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いつのまにか、村に戻り、処女にもどり、
17歳のとき、日本人の村の指導者の妻が、未婚の造船人少女全員に日本軍の工場に働きに行くように命じました。そのとき私は労働者として徴用されたのだと思いました。
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いつのまにか、村に戻り、自宅にいたら、
18歳の時、ある日、男がやって来て村から娘を出すように伝達をし、慰安所に行った。
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いつのまにか、村に戻り、再び、女学生になり、
19歳のとき、学校を卒業する25日前に日本軍に引っ張りだされ、仕方なく慰安所に行った。
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いつのまにか、村に戻り、女中奉公、
20歳のとき、国を離れましたが、ついた所は慰安所でした。
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いつのまにか、村に戻り、金持ちの家で小間使い。
26歳のとき、1938年に威鏡南道ハムン郡で女中をしていた時に、その家の娘の身代わりとなって、満州に連行され慰安婦となる。
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これが全て同一人物・黄錦周さん(1912年。扶餘生まれ)の証言です。
彼女は、夢遊病者ですか!!!(怒)
記憶違いとか言うレベルじゃありません!!!(激怒)
一体、何回、従軍慰安婦になったんですか??!!…しかも、途中で処女になってるし!!(大爆笑)
この証言を信用できる韓国人……脳みそ、大丈夫ですか???……解りますか~~~??!!
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