松代大本営の建設には、朝鮮半島の労働力も使われました。そこには慰安所もありました。
以下、信濃毎日新聞の記事です。
(ここでの差別用語の関係で、原文での「朝鮮仁」は、「韓国人」に代えてあります。
2006年8月16日(水曜日)信濃毎日新聞 【マツシロー戦後61年目の夏(2)】より抜粋
「分からないことは話せない。知っていることだけ話します」
5月半ば、大本営地下壕が掘られた長野県松代町西条地区。民家の一室で、同地区の児沢融さん(71)は、県内外の市民でつくる団体「もうひとつの歴史館・松代」建設実行委員会のメンバー新谷ちか子さん(37)=東京都=らと向き合い、話し始めた。
大本営工事の頃、西条地区に「慰安所」があった。その建物は、児沢家の所有だった。融さんは、1997年に亡くなった父の聡さんに聞いた話などを語った。
建物は、駐在の警察官らが度々訪れて強く求めたため渋々貸したこと、「春山」という韓国人が運営して若い韓国人女性3,4人がいたこと、建物からは朝鮮語の大きな話し声が毎晩聞こえたこと…。穏やかな口ぶりの証言を新谷さんたちは記録していった。
<中略>
西条地区の慰安所について、置かれた経緯などから「公権力が設置し、女性が性暴力被害にあった場所」とする新谷さんたちの認識に変わりはない。一方、融さんは「公娼制度があった時代。性交渉があったとしても松代が特別な場所ではなかった」と言う。
会はいま、地下壕入り口脇に設けている展示室で、会への批判も書かれた住民の証言集を販売している。新谷さんは、解きほぐし、結び直した住民との関係を「大切にしていきたい」と言った。
松代の「慰安所」 1944年秋、西条地区にあった住民所有の物置を借り上げて設けられた。実体は不明な点が多い。これまでの工事関係者らの証言では、韓国人労働者の上層部が利用したとされる。長野俊英高校郷土研究班によると、地下壕工事の中隊長補佐だった人物(故人)が匿名で聞き取りに応じ、慰安所に一度だけ行った経験を語ったという。
………以上
戦争末期の松代では、韓国人が運営する、韓国人女性の慰安所に、韓国人労働者が通って利用していたそうです。