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JAPAN 驚きだった。日本だらけの韓国の国史教科書。   |  HOT! テーマトーク
No.276060    投稿者: kubichompa    作成日: 2006-06-22 18:56:52 閲覧数:127    推薦ポイント:1 / 0
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韓国の歴史-目次-

序文

 先史文化と国家の形成

 1 先史文化の展開
  (1) 自然環境と韓民族の形成
  (2) 旧石器文化
  (3) 新石器文化

 2 国家の形成と文化
  (1) 青銅器、初期鉄器時代
  (2) 古朝鮮の建国
  (3) 諸国の成長

 古代社会の発展

 1 古代社会の形成
  (1) 古代社会の性格
  (2) 三国の成立と古代社会

 2 古代の政治とその変遷
  (1) 政治的発展と中央集権化
  (2) 政治構造の整備

 3 古代の社会と経済
  (1) 古代の社会体制
  (2) 古代の経済生活

 4 古代文化の発達
  (1) 古代文化の性格
  (2) 思想の発達
  (3) 学問と技術の発達
  (4) 芸術の発達
  (5) 古代文化の日本伝播

 中世社会の発達

 1 中世社会への移行
  (1) 高麗の成立
  (2) 中世社会の展開

 2 中世の政治とその変遷
  (1) 政治構造の整備
  (2) 貴族支配体制の動揺とと武臣政権
  (3) 対外関係の変遷

 3 中世の社会と経済
  (1) 社会構造と支配勢力
  (2) 社会施策と法俗
  (3) 経済政策と経済構造
  (4) 経済活動の進展

 4 中世文化の発達
  (1) 儒教と漢文学
  (2) 仏教の発達
  (3) 道教と風水地理思想の流行
  (4) 科学技術と芸術の発達

 近世社会の発展

 1 近世社会への転換
  (1) 新進士大夫の台頭
  (2) 朝鮮の成立と近世社会

 2 近世の政治とその変遷
  (1) 政治体制の確立
  (2) 士林の台頭と朋党政治
  (3) 朝鮮初期の対外関係
  (4) 倭乱と胡乱

 3 近背の社会と経済
  (1) 社会構造と郷村社会
  (2) 社会施設と法俗
  (3) 経済政策と経済構造
  (4) 経済活動

 4 近世文化の発達
  (1) 性理学の発達
  (2) 民族文化の暢達
  (3) 文学と芸術活動

 近代社会の胎動

 1 近代社会への志向
  (1) 社会変化と庶民意識の成長
  (2) 近代社会への移行

 2 政治体制の変化
  (1) 統治機構の変化
  (2) 朋党政治の発達と変質
  (3) 蕩平策の実施
  (4) 勢道政治の実施
  (5) 朝鮮後期の対外関係

 3 経済構造の変化と社会変動
  (1) 収取体制の改変
  (2) 経済生活の向上
  (3) 社会構造の変動
  (4) 社会不安と宗教界の変化

 4 文化の新しい気運
  (1) 性理学界の動向と陽明学の受容
  (2) 実学思想の発達
  (3) 文学と芸術の新しい動向
  (4) 科学と技術の発達

 近代社会の発展

 1 近代社会の展開
  (1) 興宣大院君の政治
  (2) 開港と近代社会の開幕
  (3) 開化政策の推進と反発
  (4) 開化党の改革運動

 2 近代意識の成長と民族運動の展開
  (1) 東学農民運動の展開
  (2) 近代的改革の推進
  (3) 独立協会の活動と大韓帝国
  (4) 抗日義兵戦争の展開
  (5) 愛国啓蒙運動の展開

 3 近代の経済と社会
  (1) 開港以後の列強の経済的侵略
  (2) 経済的救国運動の展開
  (3) 開港以後の社会的変化

 4 近代文化の発達
  (1) 近代文明の受容
  (2) 近代教育と国学研究
  (3) 文芸と宗教の新しい傾向

 民族の独立運動

 1 独立意識の成長と三・一運動
  (1) 民族の受難
  (2) 抗日独立運動の推進
  (3) 三・一運動

 2 大韓民国臨時政府と独立戦争
  (1) 大韓民国臨時政府の活動
  (2) 国内の独立戦争
  (3) 国外の独立戦争

 3 経済・社会的抵抗運動
  (1) 民族経済の侵略
  (2) 経済的抵抗運動の展開
  (3) 社会運動の展開

 4 民族文化守護運動
  (1) 国学運動の展開
  (2) 教育と宗教活動
  (3) 文学と芸術活動

 現代社会の展開

 1 民主政治の発展
  (1) 大韓民国の樹立
  (2) 北韓の共産化と六・二五戦争
  (3) 民主主義の発展
  (4) 統一のための努力

 2 経済成長と社会変化
  (1) 経済活動の進展
  (2) 社会改革運動の展開

 3 現代文化の動向
  (1) 教育と学術活動
  (2) 宗教生活と文芸活動
  (3) 体育の発展とオリンピックの開催
  (4) 今日の歴史的使命


付録1 歴代王朝系譜

付録2 国史年表

-1-(2) 三国の成立と古代社会

 伽耶連盟
 伽耶は「政治的な発展は未熟ではあったが、伽耶連盟は周辺諸国のみならず、漢の郡県やとも交易し、経済的には繁栄した。」
 伽耶の文物の水準は高く、古墳・金胴冠・鉄製武器・鎧・土器などが発掘されている。「とくに伽耶土器は日本に伝えられ須恵器に直接影響を与えた。」

-2-(1) 政治的発展と中央集権化

 高句麗の発展
 高句麗は広開土大王の代に北方では満州の大部分がその版図となり「南方では百済を圧倒し、南海岸の一部地域に侵入した倭軍を、新羅を援護して撃退した。」

 百済の発展
 百済は四世紀後半からめざましい発展を遂げ領土を大きく拡張した。「また百済は水軍を増強して中国の遼西地方にまで進出し、ついで山東地方と日本にまで進出する活発な対外活動を展開した。」

 三国の相互競争

 高句麗は「新羅を援護し洛東江流域に侵入してきた倭軍を撃退した。」
 (三国間での同盟、競争関係の中での記述)

 三国の対外関係
 「三国のなかで、と最も緊密な関係を維持したのは百済であった。これは多数の百済の流移民が九州地方などに進出し国家建設仁貢献したからである。日本に保管されている七支刀は百済王が倭王に贈ったもので、両国の親交関係を雄弁に物語っている。百済はこのような関孫をもとに倭軍を韓半島に引き入れ、三国の抗争に利用しようとした。」

 渤海の成立
 渤海は高句麗を継承したという意識が強く「このことは渤海が日本に送った外交文書にも明確に現れている。」
 (外交文書の送付先としてのみの記述)

 渤海の対外政策
 「渤海は唐、新羅の両方から孤立しないために、日本とは最後まで友好関係を維持した。」
 
-3-(2) 古代の経済生活
 
 対外貿易の発達
 「百済は南中国、日本と盛んに貿易して経済的発展をした。」
 「日本との貿易も盛んで、三国の進んだ文物が伝えらえれた。」
 (三国時代の対外貿易を概説する項目の中での記述)
 
 「新羅の三国統一で日本は新羅を警戒するようになり、新羅も日本にいる高句麗、百済系の人びとの動向を注視し、警戒を怠らなかったため、日本との経済的交流は以前に比べ自由でなくなった。」しかし、その後に両国の交流は活発になった。
 (新羅の対日貿易の説明)

 新羅末、張保皐は海上交通を支配し「唐、日本との貿易を独占しただけでなく、政治勢力としても成長した。」
 (海上勢力の拡大を説明する文中での記述)
 
-4-(2) 思想の発達
 
 仏教の受容
 「また、百済は六世紀中葉に日本に仏教を伝え、多くの僧侶を送り日本の仏教の基礎を築いた。」
 
-4-(4) 芸術の発達
 
 郷歌と音楽
 「百済音楽は高句麗音楽に近いが、日本の音楽にも大きな影響を与えた。」
 
-4-(5) 古代文化の日本伝播
 
 三国文化の日本伝播
 「新しい文物を携えて日本に渡ったわが国の人びとは土着の日本人を教化した。」
 (この項目の冒頭の文)
 
 「百済の阿直記と王仁は日本に学問を伝えたが、この時に漢学を通して日本人は文学の必要性を認識し、儒教の忠孝精神も広く受け入れた。」また仏教、医、暦の博士および画家、工芸技術者を送った。その結果、五重の塔や百済伽藍という建築様式も生まれた。

 「高句麗も日本文化に多くの影響を与えた。高句麗の僧侶恵慈は聖徳太子の師となり、」曇徴は儒教、絵画、紙と墨の製造方法を伝えた。「日本が誇る法隆寺の金堂壁画も曇徴の作であると伝えられている。とくに現在日本の各地に残る古代の仏像のなかには、」三国の影響を受けたものが多い。
 
 「新羅は築堤術と造船術を日本に伝えたが、とくに築堤術の伝播で、「韓人の蓮池」と呼ばれるようになった。」

 三国の音楽は「高句麗楽、百済楽、新羅楽などの名称まで生まれ、日本音楽の潮流をなした。」
 「このように三国時代のわが国の流移民は日本列島に渡り、先進技術や文化を伝え、大和政権の誕生と古代飛鳥文化の基礎を築いた。」

 
 統一新羅文化の日本伝播
 「三国文化に続き統一新羅文化も日本に伝わった。日本に伝えられた新羅の政治制度は大化の改新以後の強力な専制王権の確立に寄与した。」また「強烈な国家意識は、日本の指導者に大きな影響を与えた。」
 「統一新羅文化の日本伝播は、日本が遣新羅使を新羅に派遣したことで実現した。この時期に日本に伝えられた」仏教、儒教文化は「白鳳文化に貢献した。」

 

-1-(2) 三国の成立と古代社会

 伽耶連盟
 伽耶は「政治的な発展は未熟ではあったが、伽耶連盟は周辺諸国のみならず、漢の郡県やとも交易し、経済的には繁栄した。」
 伽耶の文物の水準は高く、古墳・金胴冠・鉄製武器・鎧・土器などが発掘されている。「とくに伽耶土器は日本に伝えられ須恵器に直接影響を与えた。」

-2-(1) 政治的発展と中央集権化

 高句麗の発展
 高句麗は広開土大王の代に北方では満州の大部分がその版図となり「南方では百済を圧倒し、南海岸の一部地域に侵入した倭軍を、新羅を援護して撃退した。」

 百済の発展
 百済は四世紀後半からめざましい発展を遂げ領土を大きく拡張した。「また百済は水軍を増強して中国の遼西地方にまで進出し、ついで山東地方と日本にまで進出する活発な対外活動を展開した。」

 三国の相互競争

 高句麗は「新羅を援護し洛東江流域に侵入してきた倭軍を撃退した。」
 (三国間での同盟、競争関係の中での記述)

 三国の対外関係
 「三国のなかで、と最も緊密な関係を維持したのは百済であった。これは多数の百済の流移民が九州地方などに進出し国家建設仁貢献したからである。日本に保管されている七支刀は百済王が倭王に贈ったもので、両国の親交関係を雄弁に物語っている。百済はこのような関孫をもとに倭軍を韓半島に引き入れ、三国の抗争に利用しようとした。」

 渤海の成立
 渤海は高句麗を継承したという意識が強く「このことは渤海が日本に送った外交文書にも明確に現れている。」
 (外交文書の送付先としてのみの記述)

 渤海の対外政策
 「渤海は唐、新羅の両方から孤立しないために、日本とは最後まで友好関係を維持した。」
 
-3-(2) 古代の経済生活
 
 対外貿易の発達
 「百済は南中国、日本と盛んに貿易して経済的発展をした。」
 「日本との貿易も盛んで、三国の進んだ文物が伝えらえれた。」
 (三国時代の対外貿易を概説する項目の中での記述)
 
 「新羅の三国統一で日本は新羅を警戒するようになり、新羅も日本にいる高句麗、百済系の人びとの動向を注視し、警戒を怠らなかったため、日本との経済的交流は以前に比べ自由でなくなった。」しかし、その後に両国の交流は活発になった。
 (新羅の対日貿易の説明)

 新羅末、張保皐は海上交通を支配し「唐、日本との貿易を独占しただけでなく、政治勢力としても成長した。」
 (海上勢力の拡大を説明する文中での記述)
 
-4-(2) 思想の発達
 
 仏教の受容
 「また、百済は六世紀中葉に日本に仏教を伝え、多くの僧侶を送り日本の仏教の基礎を築いた。」
 
-4-(4) 芸術の発達
 
 郷歌と音楽
 「百済音楽は高句麗音楽に近いが、日本の音楽にも大きな影響を与えた。」
 
-4-(5) 古代文化の日本伝播
 
 三国文化の日本伝播
 「新しい文物を携えて日本に渡ったわが国の人びとは土着の日本人を教化した。」
 (この項目の冒頭の文)
 
 「百済の阿直記と王仁は日本に学問を伝えたが、この時に漢学を通して日本人は文学の必要性を認識し、儒教の忠孝精神も広く受け入れた。」また仏教、医、暦の博士および画家、工芸技術者を送った。その結果、五重の塔や百済伽藍という建築様式も生まれた。

 「高句麗も日本文化に多くの影響を与えた。高句麗の僧侶恵慈は聖徳太子の師となり、」曇徴は儒教、絵画、紙と墨の製造方法を伝えた。「日本が誇る法隆寺の金堂壁画も曇徴の作であると伝えられている。とくに現在日本の各地に残る古代の仏像のなかには、」三国の影響を受けたものが多い。
 
 「新羅は築堤術と造船術を日本に伝えたが、とくに築堤術の伝播で、「韓人の蓮池」と呼ばれるようになった。」

 三国の音楽は「高句麗楽、百済楽、新羅楽などの名称まで生まれ、日本音楽の潮流をなした。」
 「このように三国時代のわが国の流移民は日本列島に渡り、先進技術や文化を伝え、大和政権の誕生と古代飛鳥文化の基礎を築いた。」

 
 統一新羅文化の日本伝播
 「三国文化に続き統一新羅文化も日本に伝わった。日本に伝えられた新羅の政治制度は大化の改新以後の強力な専制王権の確立に寄与した。」また「強烈な国家意識は、日本の指導者に大きな影響を与えた。」
 「統一新羅文化の日本伝播は、日本が遣新羅使を新羅に派遣したことで実現した。この時期に日本に伝えられた」仏教、儒教文化は「白鳳文化に貢献した。」

 

 

-1-(1) 民族の受難

 国権の被奪
 「露日戦争が起きた時、大韓帝国は両国の戦争にまきこまれないよう局外中立を宜言した。しかし戦略的橋頭堡を先に占領しようとする日帝の強要によって韓日議定書が締結され、ソウルをはじめとする軍事的要所と施設が占領された。続いて第一次韓日協約が強制的に締結された(一九四)。これによって日本人によるいわゆる顧問政治が始まった。
 日帝露日戦争に勝利した後、より露骨に植民地化政策を推進した。すなわち、日帝露日戦争に前後してイギリス、アメリカなどの列強より韓国の独占的支配が黙認されるようになると、乙巳条約の締結を追ってきた。
 高宗皇帝の拒否で条約締結に失敗した日帝は、一方的に条約成立を公表しながら、大韓帝国の外交権を剥奪し、統監府を設置して内政権をも掌握した。これに対し高宗皇帝は国内外に条約の無効を宣言し、オランダのハーグへ特使を派遣したが、日帝によって強制的に退位させられてしまった。その後大韓帝国は軍隊まで解散させられ防衛力も失った。さらに言論、集会、出版の自由も蹂躙され、司法権と警察権を奪われた後、ついには国権まで強奪された(一九一)。」

 間鳥と独島
  「一九世紀後半以後、韓民族は間島地方に大挙して移住し、開拓した。しかし清国が間島開墾事業を口実に韓民族の退去を要求してきたために間島帰属問題がお こった。政府では白頭山の定界碑の土門江が松花江の上流にあることを理由に、間島がわが領土であることを主張して、間島を成鏡道の行政区域に編入し管埋し ていた。
 しかし乙巳条約でわが国の外交権を奪った日本は、満州の安奉線の鉄道敷設権を手に入れる代価として、間島を清回の領土として認める間島協約を清国との間に締結した(一九九〉。
 また、日帝露日戦争中に独島〔竹島〕日本領に編入するという不法行為を行なった。」

 朝鮮総督府
 「国権が奪われた後、植民統治の中枢機関として朝鮮総督府が設置され、韓民族に対する政治的弾圧と経済的搾取は日帝の意のままとなっだ。日本軍の 現役大将が朝鮮総督として任命され、植民統治の全権を掌握した。すなわち朝鮮総督は立法、行政、司法および軍隊の統師権を執行することができる権限を有し ていたのである。このように非常に広範な権限が総督に付与されたのは、韓民族の独立運動を徹底的に弾圧することにその目的があったためである。
 朝鮮総督府の官吏はほとんどが日本人によって占められた。そしてその諮問機関として中枢院を設け韓国人も政治に参与させる形式をとったが、これは韓国人を懐柔するための術策でしかなかった。三・一運動の時までほぼ一年間、一度も正式の会議が召集されなかったことをみても、それが名ばかりの機関であったことを知ることができる。」

 憲兵警察統治
 「国権が強奪され、わが国に歩兵二個師団の日本軍と数多くの憲兵および憲兵補助員が配置され、強力な憲兵警察統治が始まった。
 日帝の憲兵警察統治は世界に類例のない植民統治政策であった。日本人憲兵司令官が中央の警務総長となり、各道の憲兵隊長がその道の警務部長となった。随所に憲兵警察が配置され、武力でわが民族の生存まで脅かした。
 憲兵警察の主要業務は警察の業務を代行すること以外に、独立運動家を探索し処断することにあった。一般官吏から学校の教員に至るまで制服を者せ、サーベルを帯刀させたことも、威圧的な憲兵警察統治の一手段であった。
 このような日帝の植民地統治機構によって、言論、集会、出版、結社の自由を剥奪され、民族の指導者は逮捕、投獄、虐殺された。その結果、救国運動をし投獄された人士は数万人に達した時もあった。
 日帝はいわゆる一五人事件やさまざまな独立運動の結社に関連した独立の志士を逮捕、拷問し、独立運動の抹殺をはかった。」

 植民地支配体制の変化
 「わが民族は日帝の苛酷な植民統治に抵抗して、挙族的な三・一運動をおこした。しかし日帝の残忍非道な武力弾圧によって一時的に挫折を余儀なくされた。
 韓民族の団結力と国際世論に直面した日帝は、植民地政策の新しい方向を模索せざるをえなくなった。
 日帝はそれまで現役軍人を朝鮮総督に任命し、派遣していたが、文官でも任命することができるようにし、憲兵警察制を普通警察制に転換した。
 しかしこのような植民政策の転換は、韓民族を欺瞞し苛酷な植民統治を隠蔽するための、より狡猾な統治方式であった。わが国から日帝が放逐されるまでの間、文官の総督は一人も任命されず、また、普通警察制度への移行というのも憲兵警察の制服を着せ替えただけにすぎなかった。むしろ警察官の数と装備、そして維持費は三・一運動前よりはるかに増加していたのである。
 また、このときから『朝鮮日報』と『束亜日報』などの民族新間の発行が許された。同時に教育の機会を拡大するという、いわゆる文化統治が打ち出されたが、それも欺瞞政策の表面的なスローガンでしかなかった。実際には少数の親日分子をつくりだし、わが民族を離間、分裂させ、民族の近代意識の成長を誤導し、最も初歩的な学問と技術だけを許容して日帝の植民地支配に役立つ人問を養成するためのものであった。」

 民族抹殺統治
 「一九二年代後半、世界を襲った経済恐慌の難局を打開するために、日本の本土と植民地をひとつにまとめる経済ブロックが形成され、韓半島の労働力と資源は日帝によって徹底的に収奪されていった。朝鮮電気事業法規調査委員会や朝鮮窒素肥料工場の設立は、このような搾取のための基礎的な投資であった。
 日帝は満州を占領し(一九三一)、さらに中日戦争をしかけて(一九三七)、大陸侵略を強行し、韓半島を大陸侵略の兵站基地にしようとした。太平洋戦争が始まり総動員令が下されると、わが民族は日帝からより苛酷な人的、物的収奪を受けた。この時期にわが民族は日帝による民族抹殺統治を受けるようになった。
 日帝内鮮一体日鮮同祖論皇国臣民のような荒唐無稽なスローガンの下で、民族の言葉と歴史を学ぶことが禁じられ、皇国臣民の誓詞暗謡、宮城遥拝、正午黙祷など絶対服従を強いられ、そのうえ名前までも日本式に変えるよう強制された。
 また、わが民族は戦争に必要な食糧と各種物資を収奪され、青年は志願兵という名目で、あるいは徴兵制や徴用制によって日本、中国、サハリン、インドシナなどへ強制動員されて命を失った。女牲までもが挺身隊という名目で連行され犠牲となったのである。」

 -1-(2) 抗日独立運動の推進

 抗日結社の組織
 「わが民族が日帝の支配を受けたのは彼らより近代化が遅れたためであった。しかし悠久の民族文化と伝統にもとづく民族の自主独立精神は、独立国家建設を約束した。乙巳条約締結を前後して、全国的に熾烈に広がった義兵戦争と愛国啓蒙運動は、国権を強奪された後にも続いた。その後日本軍の弾圧が苛烈になると、義兵は国内での活動を続けながらも、一部は国外に移って独立運動の基地を建設し、武装闘争の伝統を受け継いでいった。
 国内での独立運動は日帝の無慈悲な弾圧により秘密結社運動へと変わっていくが、都市の中産層と開化知識人が中心となり組織的に展開していった。これらは独立義軍府、光復会、朝鮮国権回復団など数多くの抗日結社を組織し、さまざまな宣言文、檄文などをとおして独立思想を高揚させ、優れた民族文化に基づき光復に対する希望と信念を鼓吹した。
 抗日結社のなかで最も活発な活動を展開した団体は光復会であった。光復会は、国外に独立運動基地を建設するために各地で軍資金募集活動を展開しながら親日派を処断するなど国民を戒め覚醒していった。
 また、このような抗日結社は、各地の教育機関および宗教団体組織をとおして、教師や学生、志ある宗教人らと協力して独立運動を幅広く展開した。そしてまた、植民地経済政策によって苛酷な搾取にあえぐ農民、労働者とも結びつきながら民族運動を展閉した。」

 独立運動基地の建設
 「国外の愛国志士は国内の独立運動に呼応して、国外の各地に独立運動の基地を建設し、各地に居住するわが同胞を中心に独立運動を展開した。海外独立運動の先駆的役割を担った団体としては新民会があった。新民会の活動は、当時の義兵戦争とともに抗日運動の大きな根幹となり、国内での活動が制約を受けるようになると、国外での独立運動基地建設の先頭に立った。
 独立運動基地の建設の意味は、間島や沿海州などで、韓民族の集団的居住地域を開拓、拡張して抗日独立運動の 拠点を準備し、決定的な時期に独立を戦い取るための基盤をつくるところにあった。そしてこの地域を中心に産業をおこして経済的基盤をつくり、青少年を集め 近代的民族教育と軍事訓練を強化し、武装独立戦争を遂行しようとしたのであっだ。そのなかでも有名なのは、イフェヨン、イサンニョンらが設けた間島の三源 堡と、イサンソル、イスンヒの建てた密山府の韓興洞であった。
 これらの基地を拠点に瑞甸書塾、新興学校などの民族教育機関と独立軍養成のための武官学校が設立された。併せてイサンソルとイドンフィを正・副統領とする大韓光復軍政府が沿海州のウラジオストックに樹立されたことにより(一九一四)、独立軍の武装抗日運動の基地ができたということだけではなく、臨時政府樹立への道を開いたのである。
 他方、中国、日本、アメリカ、ヨーロッパ各地にも独立運動の闘士が亡命し、その地の韓人同胞社会を中心に独立運動を展開した。」

 -1-(3) 三・一運動

 三・一運動の胎動
 「国内外における独立運動がねばり強く展開されている頃、第一次世界大戦は連合国の勝利に終わった。終戦後パリにおいて講和会議が開かれ、アメリカ大統領ウィルソンの世界平和に関する提案などについて論議された。
 これに励まされた独立運動闘士はパリ講和会議に民族の代表を派遣して、韓国人の独立への熱意を伝え、国際的な支援を仰ごうとした。上海の独立運動組織新韓青年党からは、キムギュシクが民族代表としてパリに派遣された。
 他方、国内の愛国志士は宗教界を中心に、国権を奪われた後の世界情勢の変化を注視しながら、挙族的な独立運動を準備していった。
 この頃日本に留学していた韓国人学生らは東京に集まり、独立を要求する宣言書と決議文を宣布し、これを日本政府に通告したのち示威を展開したが、これを二・八独立宣言という(一九一九)。
 このような学生の独立示威運動は、即時に国内の民族指導者や学生に知らされた。こうして民族運動を計画していた国内の民族指導者は独立示威抗争を具体化していった。」

 三・一独立宣言
 「一九一九年三月に挙族的な万歳示威運動を計画して、互いに連緒を取り合っていた宗教界の代表が三・一運動の先頭に立ち上がった。ソンピョンヒ、イスンフン、ハクヨンクンら民族代表三三人の名前で独立宣言文を朗読し、独立を国内外に宣布した。
 その後ソウルのパゴダ公園に集結していた学生と愛国市民は、市街地に出ていき万歳示威を展開したが、それと同時に地方の主要都市においても万歳示威が連動して起こった。全民族がこの運動に加わり、大極旗の波と大韓独立万歳を叫ぶ喚声は全国に波及していったのである。
 これに驚いた日帝は、憲兵警察はもとより陸・海軍まで緊急出動させた。平和的な示威によって正当な要求を主張していたわが民族は、無差別の銃撃によって殺傷され、家屋と教会、学校などの建物も焼き払われたり破壊されるなど、大きな痛手を受けた。」

 三・一通動の広がり
  「国内の各地方に波及した三・一運動は、すぐさま外国に拡散した。満州吉林における独立宜言は国内よりも早い一九一九年二月に民族指導者三九人の名前で独 立宣言書が発表されていたが、示威運動にまでには至らなかった。しかし国内で三・一運動が起きたことによって、各地でも万歳示威が展開されていった。
  満州と沿海州地方においても激しい示威が起きた。満州では竜井をはじめ北間島と南満州地方の至る所で示威が展開された。沿海州地方ではウラジオストックか ら僑民が示威を展開し、各地に波及していった。他方、ハワイ、メキシコなどの僑民代表はアメリカのフィラデルフィアに集まり、独立宣言式を盛大に挙行し た。
 国外の三・一運動でとくに注目するべきことは、日本でも示威が展開されたことである。すでに二・八独立宣言を発表し三・一運動の起爆剤的な役割を果たした在東京の留学生は、国内で三・一運動が起きたという消息を知ると、ただちに万歳示威を展開し、大阪の同胞もこれに呼応した。」

 三・一運動の意義
 「三・一運動は独立運動の分水嶺として、わが民族に独立への希望をいだかせてくれた。わが民族は三・一運動をとおして主体牲を確認し、民族の英知と独立の意志を全世界に宣明した。
 三・一運動は民族の底力を国内外に誇示した快挙であり、日帝に 同調していた世界各国に、わが民族の独立問題を正しく認識させる契機となった。また三・一運動は中国、インドおよび中東地域においての反帝国主義民族運動 の先駆的な運動でもあった。さらに民族独立運動を国内外の挙族的な抗争へと導き、より組織的で体系的な独立運動へと発展させていった。
 他方、三・一運動を契機に上海に大韓民国臨時政府が樹立されたが、これは韓民族が自主的に民主共和制の政府を樹立したという点で大きな意義をもつ。」

 -2-(1) 大韓民国臨時政府の活動

大韓民国臨時政府の樹立
 「三・一運動の成果として臨時政府が誕生した。当時、国内外で活動していた民族指導者は、日帝の非常に厳しい監視の中で相互に連絡がとれず、各地域でそれぞれ別個の臨時政府を樹立した。国内の漢城政府、上海の大韓民国臨時政府、沿海州の大韓国民会議、満州の軍政府などがそれである。」
 統合された単一政府として上海に大韓民国臨時政府が誕生した。

 光復運動の展開
 「臨時政府は民主共和制政府として、国内外の独立運動をより組織的で効果的に推進する中枢機関の役割を担った。臨時政府は初期には、全独立運動家の支持が得られないまま、国民代表会議が招集されるなど、陣痛を味わった。そのうえ日本の中国侵略によって何度も中国各地を転転とするなど、苦戦をしいられた。しかしキムグらの努力によって組織が整備、維持され、祖国の光復のための戦いを最後まで続けた。
 臨時政府の連通制は国内外を結びつける秘密組織網であった。連通制によって全国の各道、郡、面に督辨、郡監、面監などを置き、韓民族はだれでもこの組織をとおして独立運動に加わることができた。国内の韓国人はこの組織をとおして臨時政府と連絡し、軍資全も送った。
 軍資金は満州の恰隆洋行や釜山の白山商会をとおして臨時政府に送られた。また、愛国公債を発行して資金を募金したが、集められた資金は各地の独立軍に送られ、その士気を鼓舞するのに役立った。臨時政府は交通局の通信網をとおして国内外との連絡もとった。
  他方、臨時政府はパリで新韓青年団団員として外交活動をしていたキムキュシクを外交総長に任命し、パリ講和会議で民族の独立を主張させた。また、国際連盟 とワシントン会議に対し、わが民族の独立への熱望を伝える運動も展開し、アメリカに欧美委員府を置きイスンマンを中心に積極的な外交活動を繰り広げ、国際 的に韓国の独立問題を提起していった。
 臨時政府ば機関紙として『独立新間』を刊行、配布し、史料編纂所を設けて韓・日関孫の資科集を刊行することで、内には民族の独立意識を高揚し、外には韓国の自主性と民族文化の優越性を認識させた。」

 -2-(2) 国内の独立戦争

 武装抗日闘争
 「三・一運動以後、武装抗日闘争の本拠地は満州と沿梅州にあったが、国内でも独立軍部隊が結成され、日本の軍警と熾烈な戦闘を展開した。
  その代表的な武装団体としては、平安北道の東岩山を根拠に武装活動をしていた普合団、天摩山〔平安北道〕を根拠地とした天摩山隊、そして黄海〔南〕道九月 山の九月山隊をあげることができる。国内で編成されたこれらの独立軍部隊は、満州に根拠地を置いていた独立軍と緊密な連絡をとりながら、植民統治機関の破 壊、日本軍警との交戦、親日派の処断、軍資金調達など武装抗日闘争を展開した。
 とくに天摩山隊は、日帝軍警に対する遊撃戦を展開してかなりの成果をあげ、満州の光復軍指令部と緊密に協力し合っていた。その後、天摩山隊は日帝軍警の執拗な反撃によって活動ができなくなると、満州に移り統義府に編入された。」

 愛国志士の活動
 「武装抗争中には、愛国志士によって個別的に展開された義挙も数多くあった。これらは主として外国で組織された抗日団体に属し、特殊な任務を帯びて国内に戻り日帝と戦った。代表的なものにキムウォンボンの組織した義烈団と、キムグが中心となって組織した韓人愛国団の活動がある。
 これらは日帝の要人暗殺、植民続治機関の破壊などの活動を展開した。たとえばキムサムオクの鐘路警察署投弾、キムイクサンの朝鮮総督府投弾、ナソクチュの東洋拓殖会社投弾などがあげられる。
 他方、国外ではキムチソプの日本東京宮城投弾、イボンチャンの日本国王暗殺未遂、ユンボンギルの上海虹口公園での日本軍投弾、チョミョンハの台湾義挙がある。このほかにも数多くの独立闘士は命がけで日帝と戦った。」

 六・一万歳運動
 「一九二年代に至り、民族主義系と社会主義系が対立し、独立運動の方向を決定できないでいた。このような時期に六・一万歳運動が起きた(一九二六)。
 六・一万歳運動は三・一運動以後の民族の不満や怒りを爆発させた事件であり、日帝の収奪政策と植民地教育に対する批判がその底辺にあった。
 六・一万歳運動は専門学校の学生と私立高等普通学校の学生、および社会主義系の人士によって展開された。スンジョン(一九七-一)の葬儀の当日、日帝の厳戒体制のなかで、行事に参列した学生が檄文を撒き、独立万歳を叫びながら大規模な群衆示威を展開した。
 この運動は六月一日の一日で終わったのではなく、ほかの多くの学校に連鎖反応を起こしながら広がっていったが、これによって多くの学生が逮捕、投獄された。」

 光州学生抗日運動
 「三・一運動以後、活発に展開されたさまざまな民族運動と国内外の抗日闘争は、青年学生に民族自主意識を呼び起ごしたが、六・一万歳運動は青年学生みずからが民族独立闘争の前衛的存在であることを自覚したものであった。
 六・一万歳運動直後より全国各地の学校に大小さまざまな抗日結社が組織され、植民地差別教育に反対する同盟休校の形態て熾烈な抗日闘争を展開した。さらに一九二七年に、民族唯一党運動で組織された新幹会の活動によって、国民の自覚は高まりをみせていた。
 このような状況のもとで、光州での日本人学生が韓国人女性を愚弄した事件をきっかけに、韓・の学生が衝突するに至った。この事件を収拾する過程で、警察は一方的に韓国人学生を検挙、弾圧したので、光州のすべての学校の学生が決起したが(一九二九)、ここに一般国民も加勢した。やがて光州学生抗日運動は全国的な規模の抗日闘争に拡大していった。
 学生の抗日闘争は翌年三月まで全国で繰り広げられ、一九四の学校の学生五万四○○○人以上が参加し三・一運動以後最大の民族運動として発展した。さらに満州の民族学校の学生も参加し、日本に留学していた学生も決起した。
 このように三・一運動以後にも独立闘争は六・一万歳運動、光州学生抗日運動に受け継がれたが、とくに学生が独立闘争の中心をなし、規模も全国的なものへと発展していった。」

 -2-(3) 国外の独立戦争

 独立戦争の方向
 「挙族的な三・一運動は独立運動の分水嶺となった。これを境に民族運動の指導者は祖国の光復を達成するには、何よりも武装独立戦争の組織的な展開が一番の急務であると自覚した。
 民族指導者はすでに三・一運動以前より、武装独立運動の地の利から間島をはじめとする満州や沿海州一帯を武装勢力の養成と供給の基地としてきた。したがって彼らはこの地城に住んでいる一○○万人以上の同胞社会を基盤に、数多くの抗日団体を組織し、独立運動の基地づくりをねばり強く推進しながら、武装独立軍を編成し軍事訓練を強化していった。
 独立軍は編成を再整備、強化した後、武装して鴨緑江と豆満江を越え、日帝軍警との抗戦を活発に展開した。このような消息が国内に伝わると、数多くの青年らは満州や沿海州へと渡り独立軍に加わっていった。」

 鳳悟洞、青山里の戦闘
 「三・一運動以後、満州では国民会軍、北路軍政署軍、大韓独立軍、西路軍政署軍、大韓義勇軍、光復軍総営などの独立軍部隊が活躍した。
 これらの独立軍部隊は日本軍と交戦しながら、軍資金の調達、密偵の処断、独立精神の宣揚など独立のための戦いを続けた。
 このなかで最も輝かしい戦果として、ホンボムドが率いる大韓独立軍の鳳悟洞戦闘とキムジャジャの率いる北路軍政署軍および国民会傘下の独立軍が勝ちとった青山里大捷であった。
 鳳悟洞戦闘で大韓独立軍は独立軍本営を奇襲してきた日本軍一個大隊を、崔振東の軍務都督府軍、アンムの国民会軍とともに鳳悟洞に誘いこみ、これを包囲、攻撃して大勝利を収めたのである(一九二)。
 これに対し日本は韓国内に駐屯していた部隊と関東地方に派遣されていた部隊および沿海州地城の部隊を動員し、東、西、南の三方面から独立軍を攻撃してきた。
 北路軍政署軍をはじめとする独立軍の連合部隊は、日本軍の大部隊と衝突し、六日間の十数回にわたる戦闘で日本軍を撃破し、輝かしい戦果をあげた(一九二)。これを青山里大捷という。
 大打撃を受けた日帝は、独立軍の抵抗を植民地統治の脅威とみなし、独立軍のみならず満州に住む韓国人に対してまで無差別に虐殺するという間島惨事を引き起こした。」

 独立戦争の試練
 「日本軍は、青山里大捷などの勝利で士気が項点に達している満州の韓民族に対し、大量虐殺と村落の放火、略奪、破壊をほしいままにした。これに対し独立軍は、一時各地に分散していた隊伍を再編成した。そのうち四○○○余 人規模の主力部隊は、ソ・満国境に位置する密山府に集結し、ソイルを総裁とする大韓独立軍団を組織して、ソ連の領土内に移動した。彼らはそこで、弱小民族 を支配するという赤色軍に利用され、ついには武装解除までされるという、いわゆる自由市惨変の憂き目にあった(一九二一)。
 しかし独立軍はこれにくじけることなく、組織を再整備しながら力量を強化し統合運動を進めた。その結果、鴨緑江の対岸地城では臨時政府の直轄下に陸軍駐満参議府が成立し、吉林と奉天を中心とする南満州一帯では正義府が組織された。
  また、北満州一帯では自由市惨変以後、ソ連領土から引き返してきた独立軍を中心に新民府が組織された。これによって満州の独立車は参議府、正義府、新民府 の三部に統合された。これらはそれぞれの地域で韓民族の自治をはかる民主的な民政機関を置き、立憲政治組織や独立軍の訓練と作戦を担当する軍政機関も具備 した。しかし独立軍は、独立軍を弾圧する目的で日帝と満州軍閥の間に締結された三矢協定により大きな打撃を蒙った。
 さらに日帝が満州事変を引き起こし、傀儡政権の満州国を樹立しだことにより、この地域を根拠地として武装抗日闘争を展開していた独立軍は、より大きな危険にさらされた。しかしながら独立軍はあらゆる困難を克服しながら抗戦を続けたが、やがて中国軍と連合作戦を展開することによって難局を打開していった。
 すなわち、チ(イ)チxンチxンが率いる韓国独立軍は、中国の護路軍と連合し、双城堡、大甸子などで日・満連合軍と戦い大勝利を収めた。またヤンセボンが指揮する朝鮮革命軍は中国義勇軍と連合し、興京城、永陵街の戦闘で日本軍を撃破した。その後、独立軍の大部分は臨時政府の要請を受け中国本土に移動し、韓国光復軍創設に参加したが、一部は満州に残留し中国抗日軍と共に抗日連合軍を編成し戦いを続けた。」

 韓国光復軍の結成
 「大韓民国臨時政府が、宿願であった韓国光復軍の創設に着手したのは、中日戦争が起こった後であった。光復のためには日本に決戦をいどむ道が最善であり、国際情勢も日本と戦争する時期が差し追っていることを示唆していた。臨時政府が軍事計画を推進するにおいて最も大きな障害は、訓練を受けた兵力が不足していたことであった。
 そこで臨時政府のキムグ、チチxンチxンらは、満州とシベリアで戦っていた新興軍官学校出身の独立軍と、中国大陸に散在して独立運動に加わっていた数多くの青年を集め、ついに重慶で韓国光復軍を創設したのである(一九四)。
 これに先立ち、キムウォンボンの朝鮮民族革命党は朝鮮義勇隊を結成し、中国各地で抗日戦争を展開していた。韓国光復軍はこの朝鮮義勇隊を吸収して軍事力を増強し、中国国民党政府との積極的な協力のもとに連合軍の一員として対日戦争に参戦しようとした。
 他方、韓国光復車に合流せず、延安を中心に独自の活動を展開していた朝鮮独立同盟系の朝鮮義勇軍は、華北、満州地域で抗日戦争を展開した。」

 対日宣戦布告と韓国光復軍の活確
 「大韓民国臨時政府は中国の国民党政府とともに移動をくりかえした後重慶に定着し、政府の体制を本土修復のだめの臨戦態勢に立て直した。そして散在していた各地の武装勢力を臨時政府傘下の韓国光復軍に統合し、軍事力を強化した。
 太平洋戦争が始まると、臨時政府はすぐに対外活動を展開し、対日、対独宣戦布告文を発表、韓国光復軍を連合軍の一員として参戦させた。韓国光復軍はビルマ、インド前線にまで派遣され、イギリス軍との連合作戦を遂行することもあった。
 対日戦に参戦した韓国光復軍は、直接戦闘に参加すること以外にも、捕虜の審問、暗号文解読、宣伝ビラの作成と懐柔のための撹乱放送などの心埋戦に参加した。
 韓国光復軍は中国と東南アジアー帯で対日戦に参戦しながらも、祖国の光復をみずからの手で勝ちとるために、直接国内への進入作戦も計画していた。
 韓国光復軍は総司令官のチチxンチxン、支隊長のイボムソクらを中心に、中国駐屯のアメリカ軍と連合し、国土修復作戦の任務を負った国内挺進軍の特殊訓練を実施し、飛行隊まで編成した。しかし一九四五年八月一五日の日本の無条件降伏によって、韓国光復軍はその年の九月に計画していた国内進入作戦計画を実行することなく祖国の光復を迎えたのであった。」

 -3-(1) 民族経済の侵略

 土地の略奪
 「開港以後、わが国は日帝の経済侵略を克服するために努力した。しかし日本の通信、交通などの施設の占有や、貨幣、金融の浸食など経済的浸透を防ぐことができないまま国権を奪われてしまった。
 その後、各分野の産業は日帝の植民地経済体制に組み込まれた。そのなかでも核心をなすものは、農業の分野で断行された、いわゆる土地調査事業という全国的な土地強奪であった。一九一年以前に、日帝はすでにわが国における日本人の土地所有を認める法令を制定していたが、続いて土地調査令を発表し、莫大な資金と人員を動員して全国的な土地調査事業を展開した(一九一二-一八)。日帝はこの土地調査事業を近代的所有権を認める土地制度の確立だと宣伝した。
  これによって農民は、土地所有に必要な複雑な書類を揃え期限内に申告するという、煩雑な手続きをふんだ場合にのみ所有権が認められることになった。した がって申告を忌避したり、機会を失した農民の農地や公共機関に属していた土地のほとんどは、朝鮮総督府の所有となってしまった。
 土地調査事業によって不法に奪い取られた土地は全国農地の約四バーセントにもなった。朝鮮総督府はこれらの土地を東洋拓殖株式会社に引き渡し、韓国に移住してきた日本人に安い値段で払い下げた。
  土地調査事業の実施は韓国農民の生活を大きく脅かした。それまでの農民はすでに土地の所有権にあわせて耕作権を保有していたが、土地調査事業以後は多くの 農民は地主に有利な期限付き契約による小作農へと転落していった。そうして生活基盤が不安定になった農民は日本人高利貸しに苦しめられ、その結果生きてい くために火田民になったり、満州、沿海州、日本などの地へ流浪せざるをえなかった。
 海外に移住したわが同胞は悲惨な生活を余儀なくされたが、そのなかでもとくに日本へ渡って行った同胞のなかには、関東大震災による多数の犠牲者が出た。」

 産業の侵奪
 「日帝の植民地経済政策は、わが国の米や各種原科を安価に買い取り、日本製の品物を高く売って二重に搾取した。
 朝鮮総督府は農民を苦しめる土地調査事業のほかに、林業、漁業、鉱業など産業全般にわたり徹底した搾取政策を進めた。そのためにわが国の産業経済権は金融組合、農工銀行などの統制を受け、許可制の会社令によって民族企業の成長は抑圧された。
 林業分野でも山林令による林野調査事業が実施され、莫大な国・公有林および所有者不明の山林のほとんどが日本人の手に渡った。その結果、全山林の五パーセント以上が朝鮮総督府と日本人の所有となった。
 漁業分野での侵奪も例外ではなかった。早くから韓国漁場に進出していた日本人漁民は、一九一年以後韓国に移住し、多大の資本と朝鮮総督府の後押しで韓国の漁場を狐占した。わが国の漁民はこれに対し、奪われた漁業権の回復とその保全のために全国の漁場において熾烈に闘い抵抗した。
 鉱業分野でも全国の鉱山資源は綿密に調査され日本人財閥の手に渡っていった。その結果、韓国人に許可された鉱区数は日本人の五分の一でしかなかった。
 また、朝鮮総督府や総督府の庇護にあった日本人の会社は、鉄道、港湾、通信、航空、道路などを独占経営し、タバコ、人参、塩などを専売した。こうして民族資本は衰退し、民族経済発展の道は閉ざされたのである。」

 食糧の収奪
 「第一次世界大戦に参戦し、資本主義の基礎固めをした日帝は、高度成長のために韓国に対する経済的収奪を一層強化した。
 彼らは工業化の推進にともない生産が不足するようになった食糧を、韓半島より収奪する、いわゆる産米増殖計画を立て、これをわが国の農村に強制した。一九二年からの一五年計画によって推進された食糧増産計画には無埋があり、結果的には計画した増産量を達成できず中断するはめとなった。
  しかし日帝の米穀収奪は目標どおりに遂行され、この計画が中断された一九三三年でも、増産量をはるかに超過した量を収奪していったのである。そのためにわ が農民の大多数は飢餓線上であえぎ、満州に新しい生存基盤を探し求めての流浪の旅に出るか、火田民に転落するほかはなかった。当時農民は米を収奪されだだ けでなく、増産に投入された水利組合費、肥料代全、穀物運搬費なども負担させられ、二重の苦痛にあえいだのである。」

 兵站基地化政策
 「日帝の経済侵略は一九三年代になると新しい様相をみせた。日帝は産米増殖計画が困難と知り、工業原科増産政策に方向転換した。すなわち、木綿の栽培と羊の飼育をめざす、いわゆる南綿北羊政策を打ち立て農村に強制した。その後日帝は大陸侵略を画策して韓半島を兵站基地に仕立てようとした。そのために発電所や軍需工場が建設され、鉱山の開発や重化学工業の導入、発展に力が入れられた。しかしこれらすべては日帝の戦争遂行のためであり、韓半島の経済を植民地経済体制により徹底的に隷属させるためのものであった。」

 -3-(2) 経済抵抗運動の展開

 小作争議
 「日帝の土地収奪によって小作農に転落した農民は、日本人地主に収穫量の五パーセント以上を小作料として納めただけでなく、さまざまな税金と肥科代金までも負担させられた。
 このような状況で、農民の小作争議が頻発した。とくに日本人地主に抵抗して起きた小作争議は農民の生存権闘争であり、ひいては日帝の収奪と闘う抗日民族運動の牲格を帯びたものであった。
 小作争議は一九一九年に初めて発生して以来毎年増加していった。初期の争議が小作権の移転とか高率小作科に反対する闘争であったことに比べ、一九三年代以後の争議は日帝の収奪に反対する抗日民族運動の性格を担い、さらに激しくなっていった。
 全国的な農民組織としては朝鮮農民総同盟の結成がその最初であった(一九二七)。以後、全国各地に数多くの農民組合が結成され、争議もより組織的に展開されていった。」

 労働争議
 「労働運動は主として日帝の植民地工業化政策にともなう過酷な労働粂件をめぐって発生した。労働争議は低賃金問題と劣悪な労働条件を主要な争点として起こったが、ストライキになると、例外なく警察が介入し多くは失敗した。争議が発生した所は大部分が日本人経営の工場だったので、争議は反帝、反日闘争としての政治的性格を帯びた。
 日帝は一九三年代に入ると、大陸への侵略戦争遂行に必要な軍需品を生産するために、軍需工場施設を拡充し、地下資源を略奪、労働力を動員した。そのようななかにあって、日帝は韓国人労働者の賃金をより引き下げ、労働時間を延長するとともに各種の負担金を強制徴収した。そのために労働者の生活が急速に悪化し、ストライキが続発した。労働者はこのようななかで地下組織をもった労働組合を結成して継続的に労働争議を戦ったが、それも日帝の苛酷な弾圧によってしだいに縮小せざるをえなくなっていった。」

 民族企楽の成長
 「三・一運動以後、民族運動が高揚するなかで、民族産業を育て経済的自立をはかろうとする動きがおこっだ。しかし民族企業の活動は大きな会社の設立というより、むしろ小規模工場の建設にはっきりと現れていた。
 当時の民族企業はいくつかの類型に分けることができた。そのひとつは地主出身の企業人が、地主や大商人の資本を集め大規模の工場を建てる場合と、もうひとつは庶民出身の商人が資本を集め、新しい企業分野を開拓した場合であった。
  地主出身の企業を代表するものとしては、京城紡績株式会社があり、庶民出身のものとしては、平壌メリヤス工場や靴下工場、およびゴム靴工場などがあった。 これらの民族企業は純粋に韓国人だけで運営されており、韓国人の好みに合い、耐久性のある高品質の製品をつくり、市場へ出した。
 他方、金融業にも韓国人は活発に進出した。三・一運動以後に設立された民族系銀行としては、慶南合同銀行、三南銀行、慶一銀行、湖南銀行などがあった。しかしこのような民族企業の大部分は一九三年代になると、日帝の巧妙な弾圧によって解体させられるか、日本人企業に吸収、合併させられた。したがってこの時期における民族企業の活動は、一九二年代より大きく後退せざるをえなかった。」

 物産奨励運動
 「一九二年代に民族企業が活気を帯びはじめた頃、民族運動の一環として全国的に物産奨励運動が展開された。「われらの暮らしは土産品で」というスローガンを掲げ展開された物産奨励運動は、民族産業を育成することで民族経済の自立をはかろうとする民族運動であった。
 物産奨励運動は朝鮮物産奨励会が組織されて活発になったが、この運動は日本商品を 排斥し国産品を愛用しようとするもので、全国的に広がっていった。また、物産奨励運動は民族資本を育てるために消費節約が必要であるとして、倹約貯蓄、生 活改善、禁酒断煙運動なども推進した。これと同時に学生の間では自作会〔一九一三年ソウルで創設された国産品愛用啓蒙団体〕運動が繰り広げられた。
 物産奨励運動は全国に広がって推進されたが、この運動も日帝の弾庄によって大きな成果を得られなかった。」

 -3-(3) 社会運動の展開

 新幹会と槿友会
 「一九二年代初期に社会主義思想が伝えられ、民族運動に新しい局面が現れた。日帝の統治を受けていたわが民族仁は、社会主義思想を容易仁受け人れる与件がそろっていた。主として社会主義思想を受け入れた多くは若い知識人であったが、彼らによって農民運動、労働運動、青年運動などの社会運動が活発に展開された。
 しかし思想的な理念と葛藤は民族独立運動に大きなつまづきをもたらした。そのためにこのような状況を克服する方法が模索されたが、その結果、民族唯一党運動が起こったのである。
 民族唯一党運動は民族主義陣営と社会主義障営が、理念と方法を超越し、統合することによって、単一化された民族運動を強力に推進しようとするものであり、その成果として新幹会が結成されたのであった。
 新幹会はイサンジェら知識人三余人が発起人となりソウルで発足したが(一九二七)、すぐさま各地にも支会が生まれ全国的な規模へと発展していった。新幹会は民族の団結と政治的、経済的覚醒、機会主義者の排撃を基本綱領とし、光州学生抗日運動に調査団を派遣するなど民族運動を展開した。
 新幹会の出帆とともに誕生したのが槿友会であった。槿友会はキムファルランらが中心となり女性の民族唯一党として組織され、女性労働者の利益擁護と新生活改善を行動綱領にしていた。しかしこのふたつの団体は、日帝の巧妙な弾圧と内部の理念対立によって一九三年代初めに解体されてしまった。」

 育少年運動
 「一九二年代初め、全国の青年運動団体は一○○を 超えていたが、これら青年運動団体は表面的には、青年の人格陶治、知識開発、体育奨励、団体訓練強化などを掲げ、風俗改善と迷信打破などによって社会の改 良を追求した。しかしこれらの団体は、このような表面的な目標よりも実際には民族の生活と実力を向上させることによって、自主独立の基礎づくりをしようと していた。
 そのため青年団体は、講演会、討論会などを開催し、学校、講習所、夜学などを設置、運営して知識の向上をはかり、運動会、早起き会などをとおして心身の鍛錬をはかった。また、断煙会、禁酒会、貯蓄組合などを結成し社会教化と生活改善をめざした。
 しかし一九二年代初めに社会主義思想が流入してきた後、青年団体は民族主義系列と社会主義系列に分かれた。このような青年運動の分裂を収給するために組織されたものが朝鮮青年総同盟であった(一九二四)。
 青年運動の高揚に影響を受け、少年運動も活発になった。少年運動は天道教青年会が少年部を設けたことから本格化したが、その後天道教少年会として独立して「子供の日」を制定、記念行事などを行なうことで、少年運動は全国に波及した。
  その後少年運動の全国組織として朝鮮少年連合会が結成され、体系的な少年運動が展開されていった。とくにパンジョンファンとチョチョロらは少年運動をとお して、子供に勇気と愛国心を鼓舞していった。しかし指導者間の理念と思想の対立によって少年運動も分裂していった。そのうえ中日戦争勃発後、日帝が韓国の青少年運動を一切禁止したために青少年運動は中断せざるをえなくなった。」

 文盲退治運動
 「わが民族は日帝の厳しい植民地差別教育政策によって、教育の機会を失い、文盲が増加した。文盲の増加は民族の力量を弱めることであり、まさに日帝が目標としてきた韓国人の愚民化を意味していたのである。これに対してわが民族は、三・一運動を契機に文盲退治こそが最大急務であると自覚し、文盲をなくすための実践に移した。そうして一九二年代には全国各地に夜学が生まれた。
  文盲退治運動に立ったのは『朝鮮日報』、『東亜日報』など民族の言論機関であった。『朝鮮日報』は民衆文化の向上のために文字普及運動を開始した。当時、 『朝鮮日報』と帰省学生らによって推進されたこの運動は、農村啓蒙と文盲退治に大きな成果をあげた。『束亜日報』はブナロード運動〔「民衆の中へ」をス ローガンに展開された知識人の農村改革運動〕を展開したが、この運動は二○○○万の国民のなかで八パーセント近い一六○○万人が文盲という深刻な事態を打破するために、彼らに民族の文字を教え、その一方で迷信打破、旧習排除、勤倹節約など生活改善をはかろうとした。しかしこのような言論機関による農村啓豪と文盲退治運動も、いや増す日帝の弾圧により終止符をうつことになった。」

 -4-(1) 国学運動の展開

 植民地文化政策
 「政治的、社会的弾圧や経済的収奪もさることながら、文化面においても日帝はあらゆる手段を用いて抑圧政策を進めた。
 まず教育分野にあっては愚民化教育による韓国人の皇国臣民化をはかった。そのためにわが民族はウリマルの代わウに日本語を学ぶよう強制され、各学校の教科書は彼らの侵略政策に合うように編纂された。私立学校や書堂などの民族主義教育機関に対しても抑圧し、植民地統治に有用な実業技術教育を押しつけた。
 中日戦争後はいっそう厳しい植民地教育が実施された。すなわち、日帝が打ち出した内鮮一体日鮮同祖論皇国臣民化といったたぐいの荒唐無稽な標語のもとで、ウリマル教育と民族の歴史教育は一切禁止され、これに抵抗した学校は閉鎖された。
 他方、韓国人の言論、集会、結社の自由は剥奪され、日帝の植民統治に抵抗した新聞はすべて廃刊となった。三・一運動以後、いわゆる文化統治政策によってわずかに『朝鮮日報』、『束亜日報』の発行が認められたが、これらの民族紙も記事が削除されたり、停刊や廃刊にされ、言論人が拘束されるなどあらゆる追害を受けた。
 また、わが民族史も日帝の植民統治を合理化するために捏造されていった。とくに民族史の根源ともいうべき古代史が歪曲され檀君朝鮮は否定された。韓国史の他律性と停滞性が強調され、韓国史の自律牲と独創性などはまったく否定された。
 宗教活動もあらゆる弾圧を受けた。キリスト教勢力の圧殺陰謀によって、いわゆる安岳事件、一五人事件が捏造され三・一運動以後には数多くの教会指導者が独立運動に加担したとの理由で逮捕、投獄された。
 仏教においても寺刹令、僧侶法などが制定され、厳しい弾圧を受けた。天道教と大(イに宗)教などの民族宗教は、とりわけ日帝の干渉を受け活動の自由が大きく制限された。」

 ハングル振興運動
 「愛国志士は日帝のきびしい弾圧に抵抗して民族文化を守護する運動をねばり強く展開した。
 三・一運動以後、イユンジュ、チェヒョンペなどは国文研究所の伝統を継ぎ朝鮮語研究会を組織し、国語研究を盛んにした。彼らはハングルの研究とともに、講習会、講演会をとおしてハングルの普及に努力し、『ハングル』という雑誌も刊行してその研究成果を整埋していった。
 朝鮮語研究会は朝鮮語学会に改編されて研究も深められた。この学会はハングル教育にも力を入れ、ハングルの教材を出版したり、会員が各地方を巡回してハングル普及をはかったが、朝鮮語学会の最大の成果は、ハングル綴字法の統一案と標準語の制定であるといえよう。
 また、朝鮮語学会はウリマル大辞典の編纂も試みたが、日帝の妨害にあい失敗に終わった。朝鮮語学会は日帝によって独立運動団体とみなされ、会員は逮捕、投獄されついには強制的に解散させられてしまった。」

 韓国史の研究
 「民族文化を守る努力は韓国史研究においてもなされた。すなわち、日帝によって民族史が歪曲され、肯定的な面だけが強調されていることに対し、民族主義歴史学者は韓民族の起源を明らかにし、民族文化のすばらしさと韓国史の主体的発展を強調する一連の研究活動を展開した。
 まずパクウンシクは上海において『韓国痛史』を書き、近代以後における日本の韓国侵略過程を明らかにし、『韓国独立運動之血史』では日本の侵略に抵抗して闘った韓民族の独立運動を著した。彼は民族精神を魂として提え、魂のこもる民族史の重要性を強調した。
 次にシンチェホは主として古代史研究に重きを置き、『朝鮮上古史』、『朝鮮史研究草』などを著述し、主体的な民族史をまとめることによって民族主義歴史学の基盤を確立した。
 そのほかにチョインボは『朝鮮史研究』などの著作をとおして植民史観に抵抗し、ムンイルピョン、アンジェホン、チャンドピンなども民族主義歴史学を継承、発展させた。また日本人御用学者が青丘学会を中心に韓国学研究を歪曲したことに反発し、イピョンド、イユンジェ、ソンジンテらが震檀学会をつくり、『震檀学報』を発刊して韓国学研究に努力した。」

 -4-(2) 教育と宗教活動

 民族教育
 「日帝の侵略下で、韓国人の初等学校の就学率は日本人の六分の一に過ぎなかった。このような現象は上級教育機関にいくほど、より深刻であった。
 三・一運動以後、日帝植民統治の変化により施設が拡張されたとはいうものの、それは日本人の ためのものであって韓国人のためではなかった。のみならず、正規学校での教育は徹底した植民地教育であって、韓国人のための民族教育はほとんど存在しな かった。しかし民族教育機関として私立学校、ミッション系の学校、改良書堂、講習所、夜学などがあり、これらの教育機関は数的にば少なかったが、民族意識 の高揚に大きく寄与した。
 民族教育運動として注目すべきことは朝鮮教育会の創立と民立大学設立運動であった。民族教育の必要性を痛感していた人びとによって組織されだ朝鮮教育会は、高等教育機関の設立のために奔走した。
  民立大学設立運動は、このような三・一運動以後に高まった韓国人の高等教育に対する熱望が具体化されたもので、わが民族の力で民立大学を設立しようとする 運動であった。こうしてイサンジェを代表に朝鮮民立大学設立期成会が結成され、言論界をはじめ社会の各界各層が呼応し、全国的に広まっていった。しかしこ の運動は日帝が京城帝国大学を設立した後、それを口実に民立大学設立運動を弾圧したために中断してしまった。」

 宗教活動
 「早くより愛国啓蒙運動に貢献してきた改新教は、一九一年以後は経済、社会、文化の各方面にわたって民族運動をより積極的に展開することによって、日帝から厳しい弾圧を受けた。そして日帝末期には神社参拝運動を拒否したことで、その措導者の一部は逮捕、投獄されていった。
 また天主教は開化期以来展開してきた孤児院、養老院などの社会事業を拡大発展させながら、『京郷』などの雑誌をとおして民衆の啓蒙に尽くした。一部の天主教徒は満州において抗日運動団体の義民団を組織し、武力闘争に立ち上がっていった。また、東学の後身である天道教の指導者は第二の三・一運動を計画したこともあった。その後天道教は言論、出版、啓蒙などの社会運動を展開し、民族文化の発展と守護に大きく寄与した。
 天道教とともに二大民族宗教のひとつであった大(イに宗)教は、早くより本部を満州に移し、民族教育と同時に武装抗日闘争にも積極的仁加わっていった。
 護国仏教の伝統を継いできた仏教界も三・一運動に参与し、ハンヨンウンらは韓国仏教を日本仏教に統合しようとする総督府の政策に果敢に対決し、民族宗教のあるべき姿勢を堅持した。他方、パクチュンビンは円仏教を割始し、開墾事業と貯蓄運動を展開、民族の自立精神を育て、男女平等、虚礼の廃止など新生活運動を展開した。」

 -4-(3) 文学と芸術活動

 文化活動
 「わが国の近代文学は、日帝の植民地支配体制にあって自由な発展が抑制された。しかしそのような悪条件のもとにあっても抵抗し、自主思想を鼓舞する文学活動は活発に展開された。
  イグァンスとチェナムソンは新小説と新体詩を発表し、近代文学の先駆者として啓蒙活動を行なった。ハンヨンウン、シンチェホ、キムソウォル、ヨムサンソプ らは伝統的な文学の基礎のうえに近代文学を昇華、発展させ、『ニムの沈黙』、『夢の空』、『つつじ』、『三代』などの作品をとおして韓民族に自主独立の信 念を植えつけた。
 シムフン、イユクサ、ユンドンジュらも抵抗意識を織りこんだ作品を発表し、民族意識を覚醒した。
 文学活動は三・一運動以後いっそう活発となり、『創造』、『廃墟』、『白潮』などの同人誌と『開闢』、『朝鮮之光』などの総合雑誌が刊行されたが、これらの雑誌は独立運動の真相を発表して日帝の弾圧を受けることもあった。
 文学活動は植民地的現実の克服に重きを置き、新文学の基盤と思潮を形成した。これにともない一九二年代の半ばには新傾向派文学が台頭してきた。一九三年代に入ってからは文学の分野も小説、戯曲、評論、随筆などに多様化しただけでなく、内容も洗練されていった。」

 芸術活動
 「文学の進展とともに芸術面でもいちじるしい発展があった。音楽分野ではアンイクテが「愛国歌」を、ホンナンパが「鳳仙歌」を作曲したが、彼らは日帝に抑えられた民族感情を作品に昇華させ表現した。
 美術でば東洋画でアンジュンシクらが伝統絵画を伝承、発展させ、西洋画でもイジュンソプのような画家が輩出して、独自の境地を切り開いた。
 また演劇では土月会が組織されて以来、数多くの新劇団体が結成され、演劇をとおして民族運動を展開した。この頃、数多くの劇団が農村巡回公演をとおして、民族の哀歓を分かちあいながら民衆を啓蒙した。
 映画でもナウンギュらが「アリラン」などの作品をとおして民衆の哀歓と抵抗意識を鼓舞し、韓国映画の基礎を形成していった。
 しかしこのようなわが民族の文芸活動は日帝による韓国語抹殺政策により、新間、雑誌が廃刊となるなど、その活動はことごとく制約を受け、ついには暗黒期に入ってしまった。」

 

 

 -1-(1) 大韓民国の樹立

 建国準備活動
 「国内外で民族独立運動を推進してきた団体は、第二次世界大戦で日帝の敗色が濃くなると、建国準備作業に着手しはじめた。
 大韓民国臨時政府は民族主義派の独立運動団体を韓国独立党に統合してその支持基盤を強化した後、大韓民国建国綱領を制定、公布した。この建国綱領は普通選挙による民主共和国の樹立、政治・経済・教育の均等などを規定していた。
 また、臨時政府は朝鮮民族革命党の指導者を引き入れて政府の体制を改編し、朝鮮民族革命党が率いていた朝鮮義勇隊を吸収して韓国光復軍を補強し、抗日戦争をより積極的に展開した。
 他方、中国の華北地方では社会主義派の独立運動家が朝鮮独立同盟を結成し、その下に朝鮮義勇軍を率いた。この朝鮮独立同盟も普通選挙による民主共和国の樹立を建国綱領に掲げていた。
 国内においても日帝の苛酷な弾圧を受けながら一部の指導者は朝鮮建国同盟を組織し、日帝の打倒と民主主義国家の建設を主要内容とする建国綱領を制定していた。
 このように国内外で独立運動を推進してきた大多数の民族指導者は、日帝の敗北後に民主共和国を樹立するということで目的を一にしていた。」

 民族の光復
 「一九四五年八月一五日、ついにわが民族は日本帝国主義の植民地支配から解き放たれ光復を迎えた。わが民族の光復は連合軍の勝利がもたらした結果ともいえるが、より重要なことは国内外においてわが民族が独立運動をねばり強く展開した結果にほかならないということである。
 民族の独立運動は政治、外交、軍事、社会、文化などあらゆる分野にわだって連綿と続けられた。その方法も武装闘争、外交活動、民族文化守護運動、実力養成運動など多様であった。とくに第二次世界大戦中、大韓民国臨時政府は対日宣戦布告をし、連合軍とともに参戦することによって国際的に韓国の独立が保障された。
 また、国際情勢もわが民族に有利に展開していった。いわゆる大束亜共栄圏建設というスローガンを掲げ侵略戦争を拡大してきた日本は、同盟国のィタリアが連合国に降伏し、続いてドイツが降伏したことにより戦力が急速に衰えた。そのうえ二度も原子爆弾攻撃を受けた結果、戦意を喪失してしまったのである。そこへソ連が日本に宣戦布告のうえ参戦したために、ついに日本は連合国に無条件降伏をしたのであった。」

 国土の分断
 「日本の敗北に先立ち、アメリカ、イギリス、中国の三首脳はカイロ会談で、韓国人民の奴隷状態に留意し、適当な時期に韓国を開放独立させることを決議すると宣言した。」

 -1-(3) 民主主義の発展

 十月維新と第四共和国
 パクチxンヒによる十月維新は民主憲政体制を逸脱し、大統領の終身執権を可能とするなど権威主義的体制が硬直し逆行していったため強い抵抗を受け、「国際的には対米、対日関係が悪化した。」

 -1-(4) 統一のための努力

 積極外交の推進
 「第三共和国は経済成長に主力を置くかたわら、自主国防に力を注ぎ、伸張した国力をもとに積極外交を推進した。
 日本と国交を正常化することによって、韓国、アメリカ、日本の三国関係に新しい時代を開いただけでなく、自由ベトナムを支援するために国軍を派遣し(一九六五)、つづいてアメリカと韓米行政協定を締結した。そして一九七年代からは非同盟国や非敵性国家との交渉をとおして実利を追求していった。」

 -2-(1) 経済活動の進展

 アメリカ軍政期の経済
 「日帝植民地化の経済は日本経済に隷属し、資本と技術が日本人に独占されていたために、光復後に、日本人が撤収し、日本との経済交流が断絶してしまうと、韓国内の工場は稼動できなくなった。」
 他方、国土の分断にって地域交流が阻害され、経済活動は萎縮した。
 「アメリカ軍政は米穀の自由販売を許し、日帝侵略期に実施された経済統制を撤廃するなど自由経済体制をとった。」この政策は一時的に景気を活性化させたが、やがて物資が底をつき、通貨の増発により物価が上昇し国民経済は大混乱となった。

 政府樹立と経済建設
 大韓民国樹立後、経済再建を優先した。
 「アメリカと経済援助協定を締結し、日本人が所有していた工場を民間企業に払い下げ、農地改革法を制定し土地改革を実施するなど経済安定政策を推進した。」
 やがて、政府の経済政策によって経済に回復基調が見られたが六・二五戦争によりその間の発展は崩壊した。

 -3-(1) 教育と学術活動

 学術活動
 「日帝の植民地統治下でわが国の学界が受けた損失は非常に大きかった。したがって光復後、学界に求められた課題は植民地史観の清算と伝統分化を新たに認識することであった。
 光復後の学術研究活動を時期別にみると、光復一九五年代までは初歩段階として、日帝によって歪曲された国史学、国語学、国文法などの伝統文化の基盤を新たにつくる時期であった。」

 -3-(2) 宗教生活と文芸活動

 宗教生活
 「日帝末期に最も大きな試練を経たキリスト教会は光復後に教勢が大きく拡張し、飛躍的に発展した。」

 文芸活動
 「光復直後の文芸界では抗日独立運動や民族を主題にした作品活動が活発であった」

 -3-(3) 体育の発展とオリンピックの開催

 体育の振興
 「日帝侵略下ではソンギジョン選手をはじめ多くの選手が世界大会で優秀な成績を修め、祖国を失ったわが民族に勇気を与えた。しかし他の分野での活動と同じく、体育活動もやはり日帝の民族差別政策によってはかどらなかった。」


削除申告  
  khw4117 06-22 18:57  
  どうしなさいと? 単語いくついくつまじたようで喜ぶことは ww
  lavis777 06-22 18:59  
  日韓友好
  anti 06-22 19:00  
  日帝ファンだからw( ̄∇ ̄)
  hne1010 06-22 19:00  
  韓国の歴史は日本による受難の歴史です, 被疑者である日本側の教科書はこういったことを隠すが...
   → yellowmonk 06-22 19:05
      併合期間は半世紀にも満たない。はっりした遺跡や書面の残っている時代でも、日本の歴史は1300年以上あります。併合時代の記述が、韓国の教科書より少ないのは、むしろ当然でしょう。
   → hne1010 06-22 19:18
       その半世紀にも及ぶ事ができない歴史は韓国のすべての歴史をひっくるめて一番受難の歴史で した. 近代の歴史は皆日本による受難の歴史, だから近代の歴史で日本と関連が多いことはあまりにも当たり前です( ・ω・ )
  strato1 06-22 19:00  
  教科書まで日本依存。ストーカー民族育成の根か(-_- )
  strato1 06-22 19:02
  それにしても、ここまで自国が雑魚だったことを強調する教育も珍しい.これでは対日劣等感は消えないだろう(-_- )
   → zin3316 06-22 19:03
      それが良いとか嫌いだか我々の歴史だからお前は馬鹿か?
   → strato1 06-22 19:07
      わざわざ弱者の雑魚の劣等民族を演出する韓国国定教科書は、情操教育上、良くないと思いますよ(-_- )
   → zin3316 06-22 19:11
      言いぐさを見るからお前もあまり良い教育を受けたようではない. 水準が低い.
  kubichompa 06-22 19:02
  内容はまるでアルメニアのようだ
  rjslaksnfk 06-22 19:03
  あげるのは易しくても.. 読むのがいくらかんしゃくが起こるかと思うのか.
  yoko 06-22 19:04
  韓国の歴史で後世に残す意味の有る歴史は日帝のことだけだと言う意味か?
   → yellowmonk 06-22 19:11
      こうやって自分達の正当性を訴える反面、日本に対するコンプレックスを、増幅してしまう悪循環ですね。そりゃ国民が反日に染まるはずです。
  kantka 06-22 19:08
  いつも感じるが,,..日本人の真心は本当にすごい.
  jyagaimozuki 06-22 19:09
  許してくださいwww
  blackhawk1 06-22 19:13
  いやはや、凄いね。  韓国人のもつ日本への嫉妬心、丸出しだ。
  pitland 06-22 19:15
  これ何てテロリスト養成テキスト?
  albabb 06-22 19:18
  これを国家規模で教育してるんだから、まさに愚民化教育
JAPAN 絶対的信頼の上に構築された日米関係!!www [9]
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JAPAN 驚きだった。日本だらけの韓国の国史教科書。 [20]
KOREA こんにちは FANUC 0T(パナック第ロティ) です. [11]
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